友人を大阪、京都、奈良、城崎温泉と案内して、東京へ移動。
夜の銀座を前日は歩いてみたのだが、友人のたっての希望ということで、この日は皇居を朝から見学に行くことにした。

皇居

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かつて4回、通算にして12年以上東京に住んでいたにもかかわらず、全く皇居なる場所に行ったことがなかった。皇居東御苑にはいつでも中に入れることも知らなかった。。。ましてや、申し込めばほんの一部ではあるが皇居内を参観できることも知らなかった。。。

皇居は、江戸時代に徳川歴代将軍が居城としており、明治元年に「東京城」となり、明治天皇が京都から移り「皇城」となる。明治6年5月に失火により全焼した旧西の丸御殿跡に、明治宮殿を造り明治21年に完成。その後戦争後の23年まで「宮城」と呼ばれた。
昭和20年(1945年)に焼失した明治宮殿に代わり、昭和43年(1968年)に現在の宮殿が完成。
面積は約115万平方メートル、周囲に8つの門がある。
皇居の東側地区の旧江戸城本丸、二の丸と三の丸の一部を「皇居東御苑」と呼び「三の丸尚蔵館」を開設して一般に公開している。

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石垣
石を持ってきた大名の印が刻んであり、島津藩の印などが今でも残っている。

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ガソリンスタンド!
宮内庁の公用車用なのだろうか。ガソリン税のない金額になるのか、はたまた無料なのか、何だか下世話だが気になってしまった。

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富士見櫓
伊豆の自然石が使用され、加藤清正による初期の打ちこみはぎ積み。
関東大震災時でも崩れず、江戸時代のまま。万治2年(1659年)の再建で、石垣の高さは約14.5メートル、櫓の高さは約15.5メートル。当時は、富士山や品川の海がここから臨めたのだそう。明暦3年(1657年)の大火(振袖大火)で焼失した後は、財政難から天守閣は再建されず、この富士見櫓が天守閣の代用をした。

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宮内庁庁舎
昭和10年(1935年)に再建。昭和27年(1952年)10月~昭和44年(1969年)3月までは、3階を仮宮殿として使われた。一般参賀の時に一度だけこの建物が使われ、2階の平な屋根の上に立たれたのだそう。

宮殿
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奥の6つは見えないのだが、7つの棟からなる。そのうちの一つである長和殿は、地下1階、地上2階で延べ約2.3ヘクタール(7000坪)。昭和39から造られ昭和43年11月に完成。
右側の玄関横のモニュメントのポール先にある形のものは「松の塔」と言われる。ふしろと言う古代の女性の腕輪をモチーフとしている。
その下は松をモチーフにしていて、夜になるとその若松の葉の間から明かりがさすようになっている。

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左側の玄関は表玄関として、国の行使や大使など主賓の為の玄関。
左の庭の2つの緑の山は、22~24種類の併せ植えの物で、1つが6メートルほどあり、全て植木職人がその中に入って手挟みで刈り込む。丁度前日に刈りこんだところとのこと。

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右側玄関からは総理が入ったり皇室関係者が出入りする。そのすぐ右隣りが豊明殿で、総理大臣任命式が行われたり、晩さん会が行われる277坪の部屋があったりする。
その右奥には連翠というお茶会の建物。

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全長160メートルで、廊下は100メートル。1月2日と、天皇誕生日の12月23日の一般参賀の時に出て来られる。前の広場は宮殿東庭で、石畳は四国の安山岩で、4500坪の広さは、2万人を収容できる。寒椿とサザンカの刈り込みで、有田焼の黄色い灯篭。

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伏見櫓通称・二重橋(正式名称・正門鉄橋)
家光の時代に、京都の伏見城から移築されたと言われている櫓。高さ約13.4メートル。関東大震災でも石垣も櫓も壊れなかった。湿気に強い構造となっていて、美術品が格納されている。上の画像は通称二重橋から伏見櫓を撮ったもの。木製の橋だったが、堀が深いために江戸時代に橋桁を橋の上に橋を作ったために「二重橋」と呼ばれた。現在は鉄製になったため、「正門鉄橋」が正式名称となり、見た目は二重ではない。

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通称・めがね橋(正式名称・正門石橋)

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この奥に現在お住まいの吹上御所があるとのことで一切立ち入り禁止。


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山下通り
この松林のずっと奥に紅葉山などがあり、養蚕地として4月末~6月まで皇后陛下が養蚕をされるのだそう。

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蓮池濠と富士見多聞
多聞は、石垣の防御と装飾を兼ねて造られたが、倉庫や武器庫として使用されていた。蓮池の蓮からは蓮根はとらないとのこと。

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元枢密院庁舎
大正10年(1921年)に完成。現在の国会議事堂のモデルとなっていて、一時期航空警察が使用していた。

皇居東御苑 ここはいつでも予約なしで入れるエリアなのだそう。
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百人番所

本丸と二の丸に通じる要所の大手三の門の前の番所には、鉄砲百人組と呼ばれた甲賀組、伊賀組、根来組、二十五騎組の4組が昼夜交代で詰めており、各組には同心が100名ずつ配属されていた。

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松之廊下

忠臣蔵のもととなった、元禄14年(1701年)浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に起こした事件の廊下があった場所。現在こんなただの植え込みの場所だとは意外。

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石室(いしむろ)
抜け穴などの諸説があったそうだが、実際には大奥用の調度品を格納した場所。

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竹林
昭和天皇の印が「若竹」だったことから、平成8年(1996年)に整備された竹林には、日本と中国の竹13種類がある。

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桃華楽堂
昭和41年(1966年)に香淳皇后の還暦を記念して建てられた音楽堂。こんな音楽堂があることも知らなかった・・・ちょっと不釣り合いなデザインに思えてしまうのは私だけだろうか。広い皇居内、自転車に乗った警官が。

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江戸城本丸御殿跡
この芝生の場所に、大奥や中奥、表などが本丸御殿にあった。

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天守台
1607年二代将軍秀忠の時に完成、1638年家光の時代に国内最大の天守閣が完成。外観5層、内部6階、地上からの高さは58メートル。しかし1657年に明暦の大火(振袖火事)で全焼、それ以降は財政難により再建されず。大火前には、約11000坪の御殿と天守閣、櫓が10、多聞が15、諸門が20以上あった。

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大手門

旧江戸城の正門で、慶長12年(1607年)藤堂高虎によって完成。元和6年(1620年)の江戸城修復に際し、伊達政宗、相馬利胤の協力によって現在の桝形形式(ますがた)の城門に。

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桔梗門
門の瓦に太田道灌の桔梗の家紋がついていたことから呼ばれるようになった。ここに集合して見学をしたのだが、桜田門からここに向かう際に、ちょうど天皇皇后両陛下が出て来られる為に封鎖となって、待ち合わせ時刻に遅刻しそうになり、皇居ランナーでもないのに桔梗門まで走るはめに・・・後から知ったのだが、両陛下は遷都1300年を記念した奈良での祝賀行事に行く為の外出だったのだそう。

結構あちこち歩いたので、とにかく近場で昼食をと日比谷公園へ。松本楼での様子はこちら

昼食を食べた後には今度は甘いものも欲しくなり、今度は銀座でお茶を。アンリ・シャルパンティエの様子はこちら

その後は六本木ヒルズの最上階より東京の夜景を楽しんだり、森美術館に行ったりした。その様子は追って。