名古屋の古い町並みの散策として、①中村遊郭、②金山界隈、③豊臣秀吉生誕の地 中村 と巡ったが、今回は「四間道」と書いて「しけみち」と呼ぶエリアに行ってみた。
尾張の中心は、長らく清洲城とその城下町であったが、関ヶ原の戦い以降、大阪の豊臣氏の勢力に対抗しなければならない政治情勢や地形上清洲の地が水害に弱いことなどから、徳川家康は、慶長14年(1609年)、名古屋台地の上に新たに城を築き、新しい都市を開発することにした。
その際に清須(現在の清州)からあらゆるものを移したのだが、それを「清須越し」と言う。清須越しにより、家臣・町人のみならず、神社・仏閣も社寺3社110寺、清洲城下の町屋約2700戸のほとんどが移転するとともに、清須城小天守も名古屋に移った。
那古野(なごの)にある円頓寺(えんどうじ)界隈は、清須越しの頃より城下町として発展し、特に七代藩主徳川宗春の時代には商業地として成長した。
元禄13年(1700年)の大火の為に1600軒ほどが焼失してしまった為、それまで2~3間だった堀川問屋筋の裏道を、防火用の火きり道として4間(約7メートル)に広げたことから、四間道と名付けられた。
四間道の東側(上の画像の右側)には石垣の上に建つ土蔵を造って防火壁代わりとし、西側(上の画像の左側)を町屋とした。大火から40年かかった元文年間(1740年)頃に完成されとのこと。

現在は伊藤家の土蔵などがわずかに残るだけとなっているが、その昔は1000もの土蔵があったのだそう。
わずか一部だが、戦災を免れ今でも城下町の面影が残っている四間道は「町並み保存地区」に指定されている。
伊藤家住宅
四間道の東側の伊藤家住宅(県文化財・非公開)は清洲越しの豪商で、堀川筋で商売を営んでいた。
松坂屋を営んでいた呉服商の伊藤家と区別する為、「川伊藤」と呼ばれた。
主屋は、桟瓦葺、切妻造、木造中2階建てで、建築年代は享保年間(1716~36)。

かつて尾張藩の勝手方御用達十人衆の塩問屋。創業は天文23年(1554年)で、名古屋では慶長15年(1610年)頃とされ、川伊藤家と並ぶ清須越商人。現在は当主が17代目という老舗で、塩を扱う「名エングループ」。


当初は疾病流行の恐怖から身を守るために天王信仰が起こり津島神社のみが祀られ、続いてこの地にあった大火から、火ぶせ(防)の神である秋葉神社が、さらに明治時代に入り日清・日露戦争への出征兵士の無事を祈って熱田神宮を祀るようになったのだそう。
屋根の上に小さな社を祭るという形態は名古屋独特。

川伊藤家のみならず、この界隈には伊藤姓が非常に多かったそうで、倉と反対側の町屋には、扉が表札代わりとなった家もある。
この形式は、「ここには芸者がいます」と意味する看板も兼ねた表札。
かつてこの地は名古屋一の芸者街だったそう。
現在、このお宅はどなたも住んでおられないようだった。
子安地蔵
安政5年(1858年)頃、井戸水をくみ上げるため現在のお堂の20メートルほど南に位置した場所に井戸を掘っていたところ、地中から30センチほどのお地蔵さまが出土した。お地蔵さまには『宝永七年円城童子』(1710年)という刻銘があり、発見した明治28年よりも150年も前に作られたものだった。庄内川が氾濫して洪水となったときに上流からこの地に流れてきて埋もれてしまったと推測されているが、再び発見されたことにより祀られることになった。


まあ、その方が住民の人達は静かに暮らせて良いのかも知れないが。。。

尾張の中心は、長らく清洲城とその城下町であったが、関ヶ原の戦い以降、大阪の豊臣氏の勢力に対抗しなければならない政治情勢や地形上清洲の地が水害に弱いことなどから、徳川家康は、慶長14年(1609年)、名古屋台地の上に新たに城を築き、新しい都市を開発することにした。
その際に清須(現在の清州)からあらゆるものを移したのだが、それを「清須越し」と言う。清須越しにより、家臣・町人のみならず、神社・仏閣も社寺3社110寺、清洲城下の町屋約2700戸のほとんどが移転するとともに、清須城小天守も名古屋に移った。
那古野(なごの)にある円頓寺(えんどうじ)界隈は、清須越しの頃より城下町として発展し、特に七代藩主徳川宗春の時代には商業地として成長した。
元禄13年(1700年)の大火の為に1600軒ほどが焼失してしまった為、それまで2~3間だった堀川問屋筋の裏道を、防火用の火きり道として4間(約7メートル)に広げたことから、四間道と名付けられた。
四間道の東側(上の画像の右側)には石垣の上に建つ土蔵を造って防火壁代わりとし、西側(上の画像の左側)を町屋とした。大火から40年かかった元文年間(1740年)頃に完成されとのこと。

現在は伊藤家の土蔵などがわずかに残るだけとなっているが、その昔は1000もの土蔵があったのだそう。
わずか一部だが、戦災を免れ今でも城下町の面影が残っている四間道は「町並み保存地区」に指定されている。

四間道の東側の伊藤家住宅(県文化財・非公開)は清洲越しの豪商で、堀川筋で商売を営んでいた。
松坂屋を営んでいた呉服商の伊藤家と区別する為、「川伊藤」と呼ばれた。
主屋は、桟瓦葺、切妻造、木造中2階建てで、建築年代は享保年間(1716~36)。

青木家
かつて尾張藩の勝手方御用達十人衆の塩問屋。創業は天文23年(1554年)で、名古屋では慶長15年(1610年)頃とされ、川伊藤家と並ぶ清須越商人。現在は当主が17代目という老舗で、塩を扱う「名エングループ」。


屋根神
屋根神さまは、津島神社、秋葉神社、熱田神宮を祭神としている。当初は疾病流行の恐怖から身を守るために天王信仰が起こり津島神社のみが祀られ、続いてこの地にあった大火から、火ぶせ(防)の神である秋葉神社が、さらに明治時代に入り日清・日露戦争への出征兵士の無事を祈って熱田神宮を祀るようになったのだそう。
屋根の上に小さな社を祭るという形態は名古屋独特。

川伊藤家のみならず、この界隈には伊藤姓が非常に多かったそうで、倉と反対側の町屋には、扉が表札代わりとなった家もある。
この形式は、「ここには芸者がいます」と意味する看板も兼ねた表札。
かつてこの地は名古屋一の芸者街だったそう。
現在、このお宅はどなたも住んでおられないようだった。



この四間道はそれほど長い距離に土蔵などが残っているわけではないが、十分に雰囲気がある良い場所。しかし週末であっても我々の他には誰も観光客らしき人がおらず、唯一いたのはドイツ人の観光客グループのみ。
尾張名古屋や三河地方は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という人達を排出しているにもかかわらず、いまひとつ彼らや、その時代にまつわる土地の観光化やアピールが上手ではないようで、勿体ない気がした。まあ、その方が住民の人達は静かに暮らせて良いのかも知れないが。。。
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