秋の特別拝観の季節。京都は左京区にある、八瀬の瑠璃光院と、大原の常寂光院に行った。

瑠璃光院

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「八瀬」の地は、「矢背」とも記されるが、壬申の乱で背中に矢傷を負った大海人皇子(天武天皇)が「八瀬の釜風呂」で傷を癒し、平安貴族や武士がやって来たとされる場所。
時代が下って明治になると三条実美が当時の庵に「喜鶴亭」と名付けた。

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電鉄会社が保有していたが、維持が出来なくなり売りに出すことになったが、建物や庭を全て取り壊して更地にするなら買うという企業が現れたことから、この素晴らしい建物や庭の景観を残すべく、平成17年に無量寿山・光明寺がお寺として維持することにしたのだそう。

山露路(やまろじ)の庭
山門をくぐって階段を上がっていく
スロープも綺麗だった。


イメージ 16書院二階から瑠璃の庭を    

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一面がもみじ。

未だ紅葉には早かったが、シーズンにはさぞや綺麗かと。






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八瀬かま風呂 
日本式蒸し風呂の原型。半円形の釜の中に10数時間、青松葉や薪などを燃やして内部の土が十分に熱せられてから火を消して煤や燃えかすを取り除いた後にむしろを敷き、その上に寝る風呂。
韓国の蒸し風呂に似ている印象だった。イメージ 3













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書院一階

苔が非常に綺麗。






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阿弥陀三尊来迎図 室町時代(16世紀)

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東王父図 
1830年前後 
狩野派の探淵守起
(たんえんもりまさ)の作。





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臥龍
(がりょう)の庭








大原山草園

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造園業者のお庭だが、無料で見学が出来たので見させてもらった。
追ってギャラリーやカフェなども併設したいとおっしゃっていた。
京都観光をされている方達も個人タクシーに案内されて一足早い紅葉を観に来ていた。



寂光院

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天台宗の尼寺。推古2年(594年)に、聖徳太子が父である用明天皇の菩提を弔う為に建立。初代住職は聖徳太子の御乳人。
文治元年(1185年)に平清盛の娘で、高倉天皇の皇后であり、安徳天皇の母である建礼門院が入寺。後白河法皇が訪れたり、豊臣秀頼や徳川家康が再興するなどした。

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桃山時代頃の建築の特色を残していると言われていた 寂光院本堂 は、平成12年(2000年)5月9日未明、何者かの放火により焼失。5年をかけて平成17年に落慶。
本尊は聖徳太子作と伝えられる六万躰地蔵尊だったが、現在は復元された真っ白な本尊が新しくなった本堂に安置されている。


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雪見灯篭(手前)
豊臣秀頼が本堂を再建した際に伏見城から寄進したもの。
桐文の透し彫り。

諸行無常の鐘楼(左奥)
宝暦2年(1752年)のもの。

千年姫小松(灯篭奥の幹)
樹齢千年だったが平成16年に枯死した。現在も御神木。

平家物語に出て来る心字池やこの姫小松はそのままとのこと。

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四方正面の池

建礼門院御庵室跡
平清盛の娘である建礼門院は、文治元年(1185年)長門壇ノ浦の合戦で源義経軍に敗れ、息子である安徳天皇と共に海に身を投げたが、一人だけ敵に助けられ、京都に送還された。その後出家して寂光院に閑居し、息子の安徳天皇や平家一門の菩提を弔う日々を過ごし、建久2年(1191年)に生涯を閉じたのだそう。
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イメージ 19特別拝観の 旧本尊地蔵菩薩立像 (重要文化財)
平成12年に本堂が全焼した際、本尊の地蔵菩薩の表面は大きく損傷したが、同じく重要文化財だった3000余体の小地蔵尊像や建礼門院像と阿波内侍像が焼けてしまった。しかし、本尊の像内の鎌倉時代の3000余体の小地蔵尊と発願文や経文類は無事で、火災後に保存処理がされ収蔵庫に永久保存されることとなった。(画像はHPより)
真っ黒に焼けて炭のようになった仏像は辛うじて体型を保っているに過ぎなかったが、本堂の屋根が全て崩れ落ちても立っていたのだそう。焼けた為、重要文化財の指定継続の有無が問われたが、彫刻目が残存していることと、像内の造立当初からの納入品が無傷だったことから指定解除にはならなかった。

像の中の3000余体のうちのいくつかの小地蔵尊は、宝物殿で見ることが出来た。通常、仏像内のこう言った小地蔵尊は見ることが出来ないので、興味深かった。

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秋の気配が感じられた。


大原の田園では、刈り取った後に藁で馬を造ってある田も。
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大原から鯖街道を北上。途中、鯖寿司を 花ひさ で食べ(その様子は こちら)、北陸道経由、名古屋に帰って来た。