春に沖縄に行ったのだが、沖縄本島の南部なども未だ観切れていないので、2泊3日で再び行くことにした。

9月にマレーシアに行った時は、瀬戸内から九州上空を西に行ったが、名古屋から沖縄に行く際には紀伊半島の東側を下って行く。紀伊半島の最南端である潮岬が良く見えた。
沖縄にはユネスコの世界遺産が9か所ある。
世界遺産は、5つのグスク(首里城、中城城跡、座喜味城跡、勝連城跡、今帰仁城跡)と、その関連遺産の4つの遺物(園比屋武御嶽石門、玉陵、識名園、斎場御嶽)となっている。前回は5つのグスクと園比屋武御嶽石門を観ただけだったので、他の関連遺産を今回は回ることにした。
前回訪れた様子は、それぞれこちらで:首里城 と 園比屋武御嶽石門、中城城跡、座喜味城跡 と 勝連城跡、今帰仁城跡
お昼に那覇空港に到着したので、まずは昼食として焼きテビチやソーキを。その様子は 石嶺食堂 で。
おやつとして、前回の沖縄訪問時には行けなかった「のまんじゅう」で有名な ぎぼまんじゅう と、チンスコウや花ボールなどを 新垣カミ菓子店 で購入。
その完成年に関しては、尚貞王代(1669~1709年)説、1783年着手し1800年完成?説などがあったが、1997年に1799年と判明したのだそう。
面積は643平米(約195坪)で、戦争でアメリカ軍の艦砲の標的となった為に壊滅的な破壊があったが、1975年から整備され1995年に完成。


育徳泉
池の水源のひとつにもなっている泉。
琉球石灰岩を沖縄独特の積み方である「あいかた積み」にしたもの。
ちょうど、中では気持ち良さそうにイモリ?が泳いでいた。


御殿(ウドゥン)
上流階級の格式ある建物に民家風の趣き(雨端)が加わっている建物。
手前から一番座、二番座、三番座と格式の高い部屋が続き、台所なども入れる15の部屋からなる。
戦争時の鉄片なども公開されていた。
御殿から観た庭。六角堂はかつては四角だったが、いつ頃からか六角になったのだそう。
右手には、アーチ式の中国式の石橋が2つかかっている。丁度芝生を綺麗に整備されているところだった。
庭の丘から観た御殿など。
勧耕台
沖縄本島南部を見渡すことが出来る展望所だが、珍しく全く海が見えない。中国から来た冊封使(さっぽうし)を案内して琉球が小さな国ではないことを訴えたのだとか。

沖縄県立第一高等女学校と沖縄師範学校女子部の生徒222名と教師18名が、沖縄陸軍病院、そして第三外科壕に配属され、併せた240名中227名が亡くなった。
「ひめゆり」は植物名ではなく、沖縄県立第一高等女学校は「乙姫」、沖縄師範学校女子部が「白百合」と校友会誌があり、併置される際に校友会誌が一つになった為「姫+百合」となった。平仮名表記は戦後になってから。

全く不勉強で、ひめゆりの塔のことはぼんやりと知っていたに過ぎず、彼女達以外にも多くの学徒が併せて2006名も亡くなったのだそうだが、戦争終結後に軍がいきなり「解散命令」を出して彼女達を事実上放置したということには驚いた。
戦後、小説や映画が作られたが、物語として事実誤認のまま話が独り歩きし、ひめゆりの人達が野戦病院としてこもっていた洞窟をお金を取って入らせるなど見世物状態になっていた時期もあるのだそう。
沖縄での死者の数:日本側188136名、米国12520名
日本側の死者のうち:本土出身軍人65908名、沖縄出身122228名
沖縄出身死者のうち:軍人軍属28228名、住民戦闘参加者57044名

平和の礎
日本人のみならず、沖縄戦で亡くなった全ての人達の名前が刻んである。
2010年6月現在、米国、英国、台湾、韓国、北朝鮮の人達も含め240931名の人達の名前が刻銘されている。


9月にマレーシアに行った時は、瀬戸内から九州上空を西に行ったが、名古屋から沖縄に行く際には紀伊半島の東側を下って行く。紀伊半島の最南端である潮岬が良く見えた。
沖縄にはユネスコの世界遺産が9か所ある。
世界遺産は、5つのグスク(首里城、中城城跡、座喜味城跡、勝連城跡、今帰仁城跡)と、その関連遺産の4つの遺物(園比屋武御嶽石門、玉陵、識名園、斎場御嶽)となっている。前回は5つのグスクと園比屋武御嶽石門を観ただけだったので、他の関連遺産を今回は回ることにした。
前回訪れた様子は、それぞれこちらで:首里城 と 園比屋武御嶽石門、中城城跡、座喜味城跡 と 勝連城跡、今帰仁城跡
お昼に那覇空港に到着したので、まずは昼食として焼きテビチやソーキを。その様子は 石嶺食堂 で。
おやつとして、前回の沖縄訪問時には行けなかった「のまんじゅう」で有名な ぎぼまんじゅう と、チンスコウや花ボールなどを 新垣カミ菓子店 で購入。
識名園
琉球王室最大の別邸。首里城の東に17世紀後半に御茶屋御殿(ウチャヤウドゥン)が、そして嘉慶3年(12月なので西暦では1799年)に南に識名園が造られ「南苑」とも呼ばれた。中国風の六角堂や大小のアーチや池の周囲を琉球石灰岩で積むなど琉球独特の回遊式庭園。その完成年に関しては、尚貞王代(1669~1709年)説、1783年着手し1800年完成?説などがあったが、1997年に1799年と判明したのだそう。
面積は643平米(約195坪)で、戦争でアメリカ軍の艦砲の標的となった為に壊滅的な破壊があったが、1975年から整備され1995年に完成。

正門
屋根のついた形式(ヤージョウ)は、
格式のある屋敷にのみ許されたもので、
この正門は王府時代の格式を踏襲している。
門を入った園内には、根が垂れ下がった
ガジュマルの木々などが生い茂り、南国の
植生を知ることが出来る。
屋根のついた形式(ヤージョウ)は、
格式のある屋敷にのみ許されたもので、
この正門は王府時代の格式を踏襲している。
門を入った園内には、根が垂れ下がった
ガジュマルの木々などが生い茂り、南国の
植生を知ることが出来る。

育徳泉
池の水源のひとつにもなっている泉。
琉球石灰岩を沖縄独特の積み方である「あいかた積み」にしたもの。
ちょうど、中では気持ち良さそうにイモリ?が泳いでいた。


御殿(ウドゥン)
上流階級の格式ある建物に民家風の趣き(雨端)が加わっている建物。
手前から一番座、二番座、三番座と格式の高い部屋が続き、台所なども入れる15の部屋からなる。
戦争時の鉄片なども公開されていた。

右手には、アーチ式の中国式の石橋が2つかかっている。丁度芝生を綺麗に整備されているところだった。


沖縄本島南部を見渡すことが出来る展望所だが、珍しく全く海が見えない。中国から来た冊封使(さっぽうし)を案内して琉球が小さな国ではないことを訴えたのだとか。

庭には、ガジュマルのほか琉球松なども生わっている。
琉球松は、琉球列島特産で、沖縄県の県木。
2~3月に花が咲き、3年目の秋に球果ができる。
琉球松は、琉球列島特産で、沖縄県の県木。
2~3月に花が咲き、3年目の秋に球果ができる。
ひめゆりの塔

「ひめゆり」は植物名ではなく、沖縄県立第一高等女学校は「乙姫」、沖縄師範学校女子部が「白百合」と校友会誌があり、併置される際に校友会誌が一つになった為「姫+百合」となった。平仮名表記は戦後になってから。

全く不勉強で、ひめゆりの塔のことはぼんやりと知っていたに過ぎず、彼女達以外にも多くの学徒が併せて2006名も亡くなったのだそうだが、戦争終結後に軍がいきなり「解散命令」を出して彼女達を事実上放置したということには驚いた。
戦後、小説や映画が作られたが、物語として事実誤認のまま話が独り歩きし、ひめゆりの人達が野戦病院としてこもっていた洞窟をお金を取って入らせるなど見世物状態になっていた時期もあるのだそう。
沖縄での死者の数:日本側188136名、米国12520名
日本側の死者のうち:本土出身軍人65908名、沖縄出身122228名
沖縄出身死者のうち:軍人軍属28228名、住民戦闘参加者57044名
一般住民(推定)36956名
当時の人口では、沖縄の住民の4人に1人が亡くなったことになる。平和祈念公園

平和の礎
日本人のみならず、沖縄戦で亡くなった全ての人達の名前が刻んである。
2010年6月現在、米国、英国、台湾、韓国、北朝鮮の人達も含め240931名の人達の名前が刻銘されている。

平和の火

高さ50メートルの断崖が続く岬。戦火に追われ住民や日本軍、学徒隊、防衛隊などがここから身投げをしたという場所。

喜屋武岬(きゃんみさき)

高さ50メートルの断崖が続く岬。戦火に追われ住民や日本軍、学徒隊、防衛隊などがここから身投げをしたという場所。

平和の塔
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