昨年も観に行ったのだが、人を案内がてら今年も行くことにした。(昨年の様子は こちら
 
江戸時代に御三家筆頭という将軍家に次ぐ家柄にあった尾張徳川家のお姫様達の為にあつらえられた、さまざまなお雛さまや雛道具や、地方の変わり雛などを観ることが出来た。
 
イメージ 1
 
 
 
古今雛(江戸~明治19C)
 
明和年間(1764~72)頃に
江戸十軒店の人形師原舟月が作り始めたと言われているお雛様で、当時としては高価な人形だが好評を博し、江戸ばかりでなく京・大阪でも流行した。そして、古今雛形式のお雛様は明治以降も制作された。
 
 
イメージ 2
 
 
犬張子
人面に似せた犬をかたどった一対の置物。
獅子・狛犬にその起源があり、邪気を祓う意味
合いがある。祝儀の際の寝所に置かれたり、
赤ちゃんの無事息災を祈って枕元に置かれ、
婚礼の調度に加えられるようになった。
そして、江戸時代には上巳の節供に際しても
飾られるようになったのだとか。
 
(これら2つの画像は写真撮影可能ホールにて
下の画像はHPより)
 
イメージ 4
内裏雛飾り
貞徳院矩姫所用のもの。
矩姫(かねひめ 1831~1902)は、尾張家14代藩主慶勝の夫人で、福島・二本松の丹羽長富の三女として生まれ、嘉永2年(1849)にお輿入れした。
矩姫の雛人形は、束帯姿3対、直衣姿1対、狩衣姿1対の有職雛があり、高さは約30センチある。当時製作された大名家のお雛さまの中でも、ひときわ格調高い作品なのだそう。
 
イメージ 3
 
 
 
 
 
有職雛(狩衣姿)
 
 
有職雛は男雛の来ている装束の種類によって、束帯姿、直衣姿、狩衣姿とも呼ばれる。
束帯は公的な儀式の際に着用される礼服、直衣は上級の公家の少し晴れがましい平常服、狩衣はカジュアルな装いに分けられる。
 
 
 
 
 
 
イメージ 5
尾張徳川家 三世代の雛段飾り
徳川美術館の創始者である、尾張徳川家19代義親の夫人米子、20代義知夫人正子、そして21代徳川美術館前館長義宣夫人の三千子と、明治から昭和にいたる尾張徳川家三世代にわたる夫人たちの、高さ2メートル、間口約7メートルにおよぶ豪華な雛段飾り。
 
イメージ 7
名古屋の旧家 中村家の雛人形
名古屋城下有数の商家だった中村家(佐野屋)に伝えられた雛人形。もともとは公家の近衛家ゆかりのお雛様として尾張徳川家に伝えられ、明治時代になって、尾張徳川家から中村家へと譲与された。去年は見なかったと思ったら、5年ぶりの展示とのこと。
 
 
特別公開 竹茶杓 銘 泪 千利休作 桃山時代16世紀
イメージ 6
雛人形とは別だが、千利休の命日にあたる2月28日の前後に約10日間のみ公開されるもの。
千利休が豊臣秀吉に切腹を命じられてから、自らの手で削った中節形の茶杓。切腹前の最後の茶会の後に、弟子の一人である古田織部に分け与えた。
本当なら着色されていない木地の竹筒なのだが、古田織部は黒漆の茶杓用の筒を作り、そこに長方形の窓を開けた。そして、黒い筒の窓を通してこの茶杓を千利休の位牌代わりに拝んだと言われている。
 
 
以下は昨年の記事内容だが備忘録として:
雛祭りの起源&変遷

古代中国において三月の最初の巳(み)の日に水辺に出て穢れや災いを祓う行事が起源と考えられ、7世紀にわが国にもたらされ上巳(じょうし)の節供として3月3日に行われるようになった。
平安時代には宮廷の年中行事として定着し、この日に曲水の宴を催したり、桃酒を飲んだ。
また自分の罪や穢れを、息を吹きかけたり身肌にすりつけて人形に託し、水辺に流す風習がわが国の俗信仰として古代からあり、これとは別に『源氏物語』をはじめとする王朝時代の文学作品の中には、幼い子どもたちの遊びに用いられた人形を「ひいな」と呼んでいた。これらの風習が何時の頃からかは明らかではないが、3月3日の雛祭りとなったと考えられている。
江戸時代になると、次第に雛祭りは盛んになっていき、今日みられるような雛祭りの形式は、江戸時代の初頃に形成された。
江戸城大奥での雛祭りでは、段を設けず畳の上に毛氈を敷いて雛人形を並べる平飾りであったと記されている。さらに大奥に仕える者の親戚縁者にあたる人々も、雛飾りの参観を許されていた。この行事は「雛拝見」とよばれ、幕末まで続いた。
13代将軍家定の頃になると、大奥では将軍の夫人である御台所(みだいどころ)のお雛さまは、対面所、休息間をはじめとする3ヶ所に飾られていたと伝えられ、飾り付けも平飾りから段飾りへと変化を遂げていった。
武家子女など身分の高い女性の嫁入り道具の家財のひとつに数えられるようにもなった。その為、自然と華美になり、より贅沢なものへ流れた。
江戸時代初期は形代の名残を残す立った形の「立雛」や、坐った形の「坐り雛」(寛永雛)が作られていたが、これらは男女一対の内裏雛を飾るだけの物であった。その後時代が下ると人形は精巧さを増し、十二単の装束を着せた「元禄雛」、大型の「享保雛」などが作られたが、これらは豪勢な金箔張りの屏風の前に内裏の人形を並べた立派なものだった。この享保年間、人々の消費を当時の幕府によって規制するため一時的に大型の雛人形が禁止された。しかし、この規制を逆手に取り「芥子雛」と呼ばれる精巧を極めた小さな雛人形(わずか数センチの大きさ)が流行することになる。江戸時代後期には「有職雛」とよばれる宮中の雅びな装束を正確に再現したものが現れ、さらに今日の雛人形につながる「古今雛」が現れた。
時期だが、和暦(太陰太陽暦)の3月の節句(上巳)である3月3日(現在の4月頃)に行われていたが、明治6年(1873年)1月1日の改暦以後は一般的にグレゴリオ暦(新暦)の3月3日に行なう。しかし東北や北陸など積雪寒冷地など一部では引き続き旧暦3月3日に祝うか、新暦4月3日に祝う。
呼称

本来「内裏雛」とは雛人形の男雛と女雛の一対を指すが、男雛を「お内裏様」、女雛を「お雛様」と呼ぶ誤りは童謡「うれしいひなまつり」の歌詞から一般化している。
雛人形の男女の並びについて

私の雛人形やそれにまつわる掛け軸などは京都の層祖母、祖母、母から伝わるものなのだが、いずれも必ず男雛が向かって右、女雛が左で、普通そうなのだと思っていた。
しかし、東京やテレビに映し出されるもののほとんどがその逆。その違いは京都だからなのか調べてみた。
古来の日本文化では、男性は向かって右、女性は向かって左とされてきたが、それは陰陽説に基づいているためで、向かって右が陽の男性、左が陰の女性となっている。
現在でも京都を中心に関西地方では、今でも向かって右が男雛、向かって左が女雛が主流だが、それ以外の地域では、向かって左が男雛、向かって右が女雛となっている地域が多いもよう。
向かって左が男雛、向かって右が女雛というスタイルは、昭和初期頃から東京を中心に広まった。
その理由としては、東京の雛人形業界が昭和天皇の即位礼に倣ったことが発祥とか、文明開化以後の西洋化(西洋は向かって男左・女右)が影響しているなど諸説あり、はっきりわからないのだとか。
ところが、不思議なのは男雛と女雛以外の並べ方のルールは変わっていないこと。
全て陰陽道に従い、「左近の桜、右近の橘」、三人官女(左から加銚子、三宝・京式は島台、長柄銚子)、五人囃子(左から太鼓、大鼓、小鼓、笛、謡)、随身(左が若い右大臣、右が老人の左大臣)、仕丁(左から怒、泣、笑)となる。