名古屋の古い町並みを観に、白壁(しらかべ)界隈に行ってみた。その1 からの続き。
白壁(しらかべ)、主税(ちから)、橦木(しゅもく)町は、江戸時代に中級武士が暮らした区割りに、近代の起業家が邸宅を建てた。
第二次世界大戦で名古屋は65回もの空襲を受け、名古屋城や熱田神宮などは焼けてしまったが、この地区は焼け残ったお陰で、現在色々な建物を見ることが出来る。
江戸時代、名古屋城の東に広がる武家屋敷町の約600坪の区割りは、長い堀が続く整然とした町並みで、明治30年代に国産初の自動織機を発明した豊田佐吉とその一族や、ノリタケの全身の森村組を創設した森村市左衛門の自邸、知多半島で代々醸造業を営む盛田家の屋敷もあり、ソニー創業者の盛田昭夫もここで生まれ育った。また、三井銀行名古屋支店長の矢田績は自宅の一部を橦木町倶楽部として開放、矢田は大学の後輩の福沢桃介に名古屋電灯の経営改革を依頼し、桃助は「電力王」と称されるようになり、桃介と女優の川上貞奴が暮らした 二葉館 もある。(二葉館や豊田佐助邸は その1 を)
多くの革新的な人達が住んだことで、名古屋最古の教会であるカトリック主税町教会などの宗教施設も受け入れられ、大正半ば情報産業の発達と共に、名古屋新聞(現在の中日新聞)の初代社長の小山松寿もこの地区の住人となったのだそう。
橦木(しゅもく)館

陶磁器商として活躍した井元為三郎が、大正末期から昭和初期に建てた邸宅。大きく区画割りされた敷地に和館、洋館、東西二棟の蔵、茶室、庭園がある。





蔵の壁には、防火用の瓦が埋めて貼ってある。
カトリック主税町(ちからまち)教会

礼拝堂 明治37年(1904年)築。
名古屋・岐阜地方に初めてカトリックを広めた井上秀斎がテュルパン神父と共に造った教会。
名古屋市市政資料館

大正11年(1922年)築。
当時の名古屋控訴院・地方裁判所・区裁判所として建設さ、昭和54年(1979年)に名古屋高等・地方裁判所が移転するまで、中部地方における司法の中心となっていた。
全国に8か所設置された控訴院庁舎のうち、現存する最古のもので、4年あまり、当時の金額で90万円をかけて竣工。正面中央ドームなど、ネオ・バロック様式。
法廷



地下の牢獄
単独房や雑居房など
高岳院(こうがくいん)

慶長13年(1608年)徳川家康が早逝した八男の
仙千代を弔う為に清洲城外に作ったお寺だが、慶長16年(1611年)の清洲越で現在の場所に移った。山門は国宝だったが、戦災で焼失。
綺麗な八重の山茶花が咲いていた。

貞祖院

慶長13年(1608年)に松平忠吉の養母が
忠吉の牌所として清洲に建立、寛保2年
(1742年)にこの地に移した。
界隈には、色々な場所が何気にあるのも面白い。

その名も「鍋屋町商店街」には、茶の湯釜製造元の紫金堂。
加藤忠三郎家が代々営んでいて、現在は12代目。
永禄年間より守山村に住んでいたが、慶長6年に藩主に召され
清洲に映り、慶長16年に名古屋城築城時に、鋳物師(いもじ)として、
その後5代目から御釜師として、苗字・帯刀・上下着用を許されたと
言う。
道路のマンホール?も大名行列のような図柄となっていたりする。


今も残る長屋には屋根神様の祠が祀ってある。(画像の室外機の横の物)
屋根神様は、津島神社、秋葉神社、熱田神宮を祭神としている。
当初は疾病流行の恐怖から身を守るために天王信仰が起こり津島神社のみが祀られ、続いてこの地にあった大火から、火ぶせ(防)の神である秋葉神社が、さらに明治時代に入り日清・日露戦争への出征兵士の無事を祈って熱田神宮を祀るようになったのだそう。
屋根の上に小さな社を祭るという形態は名古屋独特。(四間道 でも見られる)
当初は疾病流行の恐怖から身を守るために天王信仰が起こり津島神社のみが祀られ、続いてこの地にあった大火から、火ぶせ(防)の神である秋葉神社が、さらに明治時代に入り日清・日露戦争への出征兵士の無事を祈って熱田神宮を祀るようになったのだそう。
屋根の上に小さな社を祭るという形態は名古屋独特。(四間道 でも見られる)

円明寺の石の鐘は戦時中に
鉄の鐘を供出したためとのこと。


道端には、井戸や、
井戸ポンプの跡が
未だある。
歴史のある町並みの散策は、なかなか面白かった。
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