平湯温泉 の宿で朝食を。
 
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湯豆腐と鶏肉のつみれ。
 
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このほうば味噌には、お漬物とネギとバターが一緒に乗っていて、まず普通に味噌だけ食べ、その後、全部を混ぜて食べるようにと。バターとほうば味噌が案外合う。
 
30年に一回開催される 桜山八幡宮式年大祭(飛騨の大祭) なるものがあると教えてもらったので、観に行くべく 高山 へ。
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高山市内の道と言う道に提灯が掲げられ、「東日本大震災早期復興祈願」と書かれていた。
 
飛騨の大祭とは:
安永8年(1779年)に、飛騨一宮水無神社で、飛騨の神々を招いて太太神楽を奏したことに始まる。大原騒動という百姓一揆で多くの人達が処刑され、飛騨の神々を祀って祈りを捧げることで人心を奮い起す為に飛騨国内式内8社をはじめ24郷の代表的な神社を招請して3日間の太太神楽を奉納した。その後、飛騨の大祭は、「世直し大祭」として、災害や災難や疫病の流行は災いをもたらす災厄神によるものとし、災厄神を追い払い神の御加護を願う神事となった。
 
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5月3日~5日に開催され、飛騨各地の神社数百七十余社が参加し、古式にのっとった御神幸行列が桜山八幡宮に向かう。最終日の5日の渡御行列を観た。
 
まずは、桜山八幡宮の氏子達による本殿での獅子舞や子供達の演奏が奉納される。
 

 
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参道を順次、色々な神社がそれぞれの御神体を神輿に乗せてやって来る。規模の大きな神社だと、総勢250名ほどとなって獅子舞などを披露しながらの行列となり、規模の小さな神社の場合は、神官の方々だけでの奉納になる。
 
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御神体を本殿の中まで運びいれる場合もあるが、中には参道で、御神体を神輿からおろしてそこから本殿へと運び込まれることもあり、いずれの場合も御神体を一般には見せないように白い布が周囲に立てられ目隠しをして本殿に運び入れられる。
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御神体が前を通ったり到着する時には、氏子達が鳴らしていた鐘の音が変わり、皆ふかぶかと頭を下げる。
 
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規模の大きな神社の氏子達は、拝殿近くの広場で、舞を奉納していた。これは飛騨天満宮の闘鶏楽。
 
 
朝9時過ぎから2時間以上の行列や演奏になるので、ちょっとひといき入れようとみたらし団子を。
甘辛いタレなしのシンプルな醤油焼きもあり、どちらも美味しかった。
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高山祭屋台会館 
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毎年春と秋に屋台(山車)が出て賑わう高山祭。その屋台が展示されている屋台会館を見学した。春には12臺、秋には11臺が出るが、ここに展示されているのは、秋のもので、年に3回入れ替えられる。
 
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神輿
通常の屋台は2.5~3トンの重量で20名ほどが引くのに対し、この神輿は8角形となっていて、バランスを取る為に中心部分に思い鉄が入って2.5トンもする為、担ぎ手が40名、交代要員を入れると80名必要。現在は使用されていない。菊の紋がもともとついていたが、天皇家のみ使用となったので、後から花弁を1枚たして17枚となった。
 
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大八臺
文政元年に竣工。珍しい3輪の屋台。
  
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仙人臺
仙人が女性に惹かれてやってきたエピソードによるそうだが、それは不謹慎ということで、今は仙人の人形のみが乗っている。屋根は唐破風。
 
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寶珠臺
屋根にオスとメスの亀が乗っている。芙蓉の花の彫刻が美しい。
 
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布袋臺
220年前のもの。屋根が高くなっているので、柱が3段階に折れるようになっており低くすることが出来る。からくり人形は9人が操作するが、曲芸をしながら布袋像の肩に乗る子供には、何も糸などがついていないのが素晴らしい。
 
今回の大祭に併せて、町中で保管されている他の屋台蔵の扉も開かれて一般公開されていた。
 
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鳳凰臺
下段にあるケヤキ白彫りの彫刻は高山屋台彫刻の中で最大。氏子の子供達が演奏をして、被災地への募金を募っていた。
 
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行神臺
 
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鳩峯車(きゅうほうしゃ)
延享4年(1747年)以前の創建と古い。
 
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神馬臺
 
各氏子町内では、上記の屋台のほか、飾り物も展示されていた。
 
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雅楽
 
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文政台
 
 
宮地屋
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明治に米屋や酒屋などを営み、田畑を所有して半農半商を行っていた家が公開していたので、見学。
  
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上高地、中の湯温泉、平湯温泉、そして高山を楽しんだGW後半の旅行も終了。綺麗に晴れ渡った空に映える山々に後ろ髪を引かれる思いで帰途についた。