関宿で、夏祭りがあるとのことで行ってみた。
前日から行われているお祭りは、神輿渡御や山車曳が行われるのだが、それぞれが行われる前に関宿をまず観光することにした。

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東海道五十三次の47番目の宿場町。
江戸時代後期から明治時代にかけて建てられた町屋が1.8キロ、25ヘクタールに渡って、200棟以上も現存し、国の重要伝統的建造物群保存地区や日本の道百選に選定されている。

この宿場に最盛期には16基もの祭の山車があり、狭い道いっぱいに巡行することから、「この上ない、精一杯である、限度いっぱい」と言う意味で「関の山」という言葉の語源となった。眺関亭から鈴鹿方面を望む。

イメージ 17関まちなみ資料館

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伝統的な町屋。箱階段などから2階にも上がれる。
中庭から奥座敷、中座敷、帳場へ続いて表通りの格子が見える。

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玉屋
関宿を代表する大旅籠のひとつ。この日はお祭りなので、山車のミニチュアが飾ってあった。

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天保14年(1843年)で、関の戸数は632、人口は1942名に対し、宿泊施設は本陣が2、脇本陣が2、大きな旅籠が10、中ぐらいが18、小さいものが14もあった。
本陣や脇本陣は、大名・公家・幕府の役人の宿泊所。旅籠は、武士や一般庶民用で食事付。木賃宿では、旅行者が自分でお米を持参するか、宿で買って自炊をし、薪代を支払う形式の宿。商人、助郷人足、旅芸人などが雑魚寝した。
大きな旅籠では一度に200名ほどの宿泊客が寝泊まりし、一室に数組を詰め込む相宿が普通で、朝食・夕食を含めた宿代が250~270文。昼食代が当時でだいたい100文ほどの相場。

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講札がかけてあった。
江戸時代に、各地で伊勢講や愛宕講などが組織され、掛け金を積み立てて旅費を作って全講員に代わって代参する方法があった。講社はそれぞれ指定の旅籠を決めて利用し、旅籠もこの講札を軒下に掲げて講員を歓迎していた。

色々と町並みにも特徴があるので散策してみた。

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お祭りの為に山車が山車蔵から出されて用意されている。

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御馳走場
大名行列の一行を宿役人が出迎えたり見送ったりする場所。

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開雲楼 松鶴楼
何故かその御馳走場の目の前にある芸妓置屋。たいていの旅籠では、飯盛女と呼ばれる遊女を置き、
専門の遊郭も多く、この開雲楼はその代表的なもの。


浅原家 

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馬つなぎの環

江戸屋という屋号で米屋、材木屋などを営んだ。家の正面は塗籠(ぬりごめ)の中二階、連子格子、馬つなぎの環などが江戸時代のまま。
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ばったりと言われる上げ下げが出来る棚。商品を並べたり、通行人が座ったりした。

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橋爪家
江戸時代初めから両替商を意図なんだ豪商で、江戸末期からは芸妓の置屋として栄えた。道に向かって三角形の屋根を見せた建物は明治に入ってのの改造でもともとは平入の屋根。

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深川屋
寛永年間から続く和菓子屋さん。(銘菓の関の戸についてはこちら

ここの看板は庵看板(いおりかんばん)と言われ、瓦屋根が看板についており、看板の文字が京都側が漢字、江戸側がひらがなになっていて、旅人が方向を間違えないように工夫されていた。

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洋館屋 好見家
江戸末期の建築でもともと一軒。西隣の会津屋が大正初期に購入し、二軒に分ける改造を施し、西側二階は煉瓦造りの漆喰塗籠で三連のアーチ窓という独特の形態となった。

町屋の細部意匠が凝っている。漆喰細工や瓦細工は、子孫繁栄・家運長久などを願って職人が作った。

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虫籠窓(むしこまど)
町屋の正面二階にあるしくいで塗籠た格子窓。

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鯉の滝登り

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鶴と亀は同じ家のもので、一対。

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良く良く見ると、小さいが千鳥が飛んでいる。

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通り沿いのお店でみたらし団子を。お店の方が色々とお祭や昔の話などをして下さった。

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徐々に山車曳の方々が出陣してきた。

お祭りの神輿渡御や山車曳や山車回しの様子は その3 で。