東京の国立西洋美術館で行われていたレンブラント展が巡回して名古屋でも開かれているので観に行くことにした。(画像はHPより)

「羊飼いへのお告げ」 1634年
レンブラントがルーベンスを強く
意識していた頃の作品。


「貝殻」 1650年
レンブラントの唯一の静物画と言われている。
レンブラントは色々な物を収集するのが趣味だったが、
当時、このナンヨウクロミナシガイは非常に高価だった。

「アトリエの画家」 1628年
画家となって3年目ぐらいの22歳の時の作品。
3分の2をキャンバスや扉が占め、画家の内面を
表現しているのだそう。
光を表現する為、キャンバスのはじの白い線が
強調されている。

「音楽を奏でる人々」
1626年 20歳の作品。

「書斎のミネルヴァ」 1635年
最初の妻のサスキアと結婚した翌年の作品で
彼女をモデルにしている。
和紙の雁皮紙を使用している。和紙の場合、黒が細かく出る点や、地の色がクリーム色であること、そして紙が貴重ということから好んでいた。また、中国の紙や包装紙のようなオートミール紙も使っている。

同じ原版で異なる紙による多数の作品が、並べて展示してあったので、見比べやすく面白かった。

「陰のかかる自画像」 1634年
28歳の時の作品だが、没後などに弟子達が
加筆して売ったりした作品が多く、これも加筆が
多かった為、レンブラントの作品と思われて
おらず、2003年になって真作と判明。
オランダでのチューリップバブルの頃で、裕福な
女性のサスキアと結婚してライデンから
アムステルダムに転居した頃の作品。


「髭の老人」 1659年
破産した後の作品だが、より人間の
内面を描く作品が増えたと言われている。


「旗手(フローリス・ソープ)」 1654年
英蘭戦争の時期。
タッチがより大胆な手法に変わってきている。

数多い彼の自画像の中でも最高傑作と言われている。
このポーズは、イタリアの
ティツイアーノの作品
「詩人アリオストの肖像」が
手本となっている。
「ラザロの復活」
1632年頃

「エッケ・ホモ(民衆に晒されるキリスト)」 1655年
左:第1ステート
右:第8ステート
徐々に加筆されたり削除されたりしていく過程が良くわかる。

「3本の十字架」1653年
左:第3ステート
右:第4ステート
5種類あった。
そのほか、銅版の原画も2種類公開されており、彫った部分が黒くなるのを想像しながら光と影を描くのはすごいと改めて感心。
また、この日は、2008年に作られたオランダのドキュメンタリー映画である 「ようこそ、アムステルダム国立美術館へ」 が上演されていたので、少し最初は見損ねてしまったが、観ることが出来た。
その様子は その2 へ。
黒い版画
17世紀のオランダの版画は「黒い版画」と呼ばれ、夜景や暗い室内を描いた黒の諧調表現が重要だった。
「羊飼いへのお告げ」 1634年
レンブラントがルーベンスを強く
意識していた頃の作品。
「3本の木」 1643年
左の斜線が雨を表現するのか
雷なのかと論争があるのだそう。
左の斜線が雨を表現するのか
雷なのかと論争があるのだそう。


「貝殻」 1650年
レンブラントの唯一の静物画と言われている。
レンブラントは色々な物を収集するのが趣味だったが、
当時、このナンヨウクロミナシガイは非常に高価だった。
油彩 光の探求

「アトリエの画家」 1628年
画家となって3年目ぐらいの22歳の時の作品。
3分の2をキャンバスや扉が占め、画家の内面を
表現しているのだそう。
光を表現する為、キャンバスのはじの白い線が
強調されている。

「音楽を奏でる人々」
1626年 20歳の作品。
最初に光の描写を意識した作品と言われている。
服や固い物などの質感の描き分けも。

「書斎のミネルヴァ」 1635年
最初の妻のサスキアと結婚した翌年の作品で
彼女をモデルにしている。
淡い色の紙 和紙刷り版画
当時、東インド会社によってもたらされた和紙を使っている。和紙の雁皮紙を使用している。和紙の場合、黒が細かく出る点や、地の色がクリーム色であること、そして紙が貴重ということから好んでいた。また、中国の紙や包装紙のようなオートミール紙も使っている。

「病人たちを癒すキリスト」(百グルデン版画)
1648年
当時の労働者の年収が200グルデンで、
当時の版画の相場は2分の1グルデンだった。
1648年
当時の労働者の年収が200グルデンで、
当時の版画の相場は2分の1グルデンだった。
和紙と西洋紙との2種類を比較できた。
同じ原版で異なる紙による多数の作品が、並べて展示してあったので、見比べやすく面白かった。
油彩 闇の誘惑

「陰のかかる自画像」 1634年
28歳の時の作品だが、没後などに弟子達が
加筆して売ったりした作品が多く、これも加筆が
多かった為、レンブラントの作品と思われて
おらず、2003年になって真作と判明。
オランダでのチューリップバブルの頃で、裕福な
女性のサスキアと結婚してライデンから
アムステルダムに転居した頃の作品。

「ヘンドリッキェ・ストッフェルス」 1652年
最初の妻であるサスキアがなくなり、1歳の子供の乳母を
愛人とするも婚姻はせず、追ってヘンドリッキェと付き合い、
乳母とは婚約不履行として裁判沙汰となるが乳母は更生施設へ。
そしてヘンドリッキェと晴れて一緒になるが、最初の妻のサスキアの
遺言に結婚は認めないとあったため、2度目の婚姻はせず。
最初の妻であるサスキアがなくなり、1歳の子供の乳母を
愛人とするも婚姻はせず、追ってヘンドリッキェと付き合い、
乳母とは婚約不履行として裁判沙汰となるが乳母は更生施設へ。
そしてヘンドリッキェと晴れて一緒になるが、最初の妻のサスキアの
遺言に結婚は認めないとあったため、2度目の婚姻はせず。

「髭の老人」 1659年
破産した後の作品だが、より人間の
内面を描く作品が増えたと言われている。

「トビトとハンナ」 1659年
下に別の画家の静物画が描かれていたもので、
近年に真作と認められた作品。
破産して邸宅も売却した時期。
近年に真作と認められた作品。
破産して邸宅も売却した時期。

「旗手(フローリス・ソープ)」 1654年
英蘭戦争の時期。
タッチがより大胆な手法に変わってきている。
とても変わった技法 レンブラントとキアロスクーロ
キアロは明、スクーロは暗のイタリア語。版画における線で光と影を表現している。
「石の手摺りにもたれる自画像」
1639年
1639年

このポーズは、イタリアの
ティツイアーノの作品
「詩人アリオストの肖像」が
手本となっている。
「ラザロの復活」
1632年頃
3本の十字架とエッケ・ホモ
2作品だが、それぞれ、異なる素材の紙や、加筆・修正・削除などの変化を観ることが出来た。
「エッケ・ホモ(民衆に晒されるキリスト)」 1655年
左:第1ステート
右:第8ステート
徐々に加筆されたり削除されたりしていく過程が良くわかる。

「3本の十字架」1653年
左:第3ステート
右:第4ステート
5種類あった。
そのほか、銅版の原画も2種類公開されており、彫った部分が黒くなるのを想像しながら光と影を描くのはすごいと改めて感心。
また、この日は、2008年に作られたオランダのドキュメンタリー映画である 「ようこそ、アムステルダム国立美術館へ」 が上演されていたので、少し最初は見損ねてしまったが、観ることが出来た。
その様子は その2 へ。
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