五箇山 相倉合掌造り集落
ユネスコの世界遺産に登録されている「白川郷・五箇山の合掌造り集落」 の五箇山の菅沼地区に行った後(菅沼地区の様子は こちら)、より合掌造りの家屋が多い五箇山の相倉(あいのくら)地区へ行った。天然のブナ林に囲まれた中に、20棟の合掌造りの建物がある。江戸時代末期から明治時代に建てられたものだが、一番古い家屋は17世紀のものなのだそう。史跡として保存されているのは、合掌造りの民家のみならず、田畑、山林、池、道路、屋根葺き用に茅を取る茅場や、集落を雪崩から守る雪持林などが含まれる。



丁度ここでは、稲の天日干しをしているところだった。

「五箇山」 という地名は、赤尾谷、上梨谷、下梨谷、小谷、利賀谷の5つの谷間の集落の総称である 「五ヶ谷間」を音読みして 「ごかやま」 と呼び、それが転じて 「五ヶ山」 「五箇山」 になったのだそう。また、「平家の落人伝説」 がある。寿永2年(1183年)、倶利伽羅峠(くりからとうげ)の合戦で木曽義仲軍に敗れた平家の落武者が五箇山に隠れ住んだという伝説で、旧名だが平村や上平村という地名が平家に因んでいるとも言われているのだそう。

相倉民族館 1号館、2号館とある。

見学しやすいように最上階の床がはずしてあり、屋根裏が良く見える。屋根は雪が落ちやすいように60度の勾配。釘を一切使わず、根曲がりのチョンナと言われるナラの丸太を荒縄やネソと言われるマンサクの木を使ってしばっているだけ。
この地方の産業である養蚕、紙漉き、そして塩硝(えんしょう)作りの様子が展示されている。

左は塩硝釜、中央の瓶に入っているのが塩硝。

お住まいのおばあさんが話しておられたのだが、現在この村落の住民はわずか20数名。どんどん若い世代が外に出てしまって過疎化が進み、空家が目立って来ていると嘆いておられた。
流刑小屋&籠の渡し

あまりにも山奥であったことから、寛文7年(1667年)以降、加賀藩の流刑地として罪人が五箇山へ送られて来ており、それは明治維新までの約200年間続き、150名以上が流されて来たのだそう。
流刑地は、庄川の右岸の七集落に限られた。
流刑小屋には、集落内に限って出歩ける平小屋、一歩も出られないお縮小屋、小屋の中のさらに狭い檻の中に閉じ込められる禁錮の3種類があり、お縮小屋と禁錮は、牢番が食事を柱の穴から差し入れるだけだったのだとか。

加賀藩は流刑人の逃亡を防ぐ為に庄川には橋をかけず、一人で往来できない篭の渡しを使わせた。
コメント