3日前の23日に琵琶湖東に位置する 永源寺 に行ったところ、非常に紅葉が綺麗だったので(その様子は こちら)、味をしめて再度、湖東に行ってみることにした。
多賀大社、胡宮神社、湖東三山と言われる 百済寺、金剛輪寺、西明寺、そして 彦根城 に行った。
和銅5年(712年)編纂の「古事記」にすでに多賀大社が記載されている歴史ある神社。
多賀大社、胡宮神社、湖東三山と言われる 百済寺、金剛輪寺、西明寺、そして 彦根城 に行った。
多賀大社

和銅5年(712年)編纂の「古事記」にすでに多賀大社が記載されている歴史ある神社。

天正16年(1588年)に、豊臣秀吉が母の延命を祈願したことからも、入り口にある石造りの太鼓橋は太閤橋とも呼ばれるのだそう。
この太鼓橋、もとい太閤橋を渡ることが出来るのだが、物凄い傾斜で、かつ非情に滑りやすく大変。



徳川幕府が寛永11年(1634年)と元禄11年(1698年)に造営や修復工事を行い、その時の御湯神事に 多賀大社の御神田もあった。
使われた大釜。
神社の前には「糸切餅」なる名物のお餅があったので食べてみた。その様子はこちら。
胡宮(このみや)神社


聖徳太子開基の天台宗の寺院で湖東三山と並ぶほどの敏満寺(びんまんじ)の鎮守社だったが、戦国時代に兵火により焼失してしまい廃寺となり、神社だけが再建された。
紅葉にはやや早かったのだが、鳥居から登る石段の両側はモミジの木々で覆われていて、見頃を迎えるとさぞや綺麗かと。

国の名勝にも指定されているという庭園。
書院やお庭はあいにく手入れが今一つだったが。。。


チシオモミジが非常に綺麗だった。
百済寺(ひゃくさいじ)

国史跡と日本紅葉百選にも選ばれている湖東三山のひとつ。推古14年(606年)に、聖徳太子が創建した最古刹。1300年が居住する巨大寺院だったが、天正元年に織田信長の焼き討ちに遭う。
まず庭園本坊の喜見院の庭園。



池泉回遊式の庭園は広い。

遠望台からは、
琵琶湖越しに、うっすら見える山並みの比叡山が望める。

仁王門には大きな草鞋がかけてあった。
本堂では、如意輪観音半跏思惟像などが特別公開されていた。
明応8年(1499年)作。


鐘楼の鐘を鳴らしていたが、
反響がずっと響いていた。

織田信長に焼き討ちされる前の石垣。
ここのモミジは未だ紅葉には早かった。

「百済寺 ひゃくさいじ」の読み方について: (HPより抜粋)
百済は、BC18年に高句麗から分離独立し、現在のソウル近辺に成立。当初は『伯済』と書いて 『ハクサイ』と呼ばれていた。5世紀代の国王が、『伯』の文字は左右非対称で弱々しいため、『イ(にんべん)』を跳ね上げて左右対称の安定した『百』の文字にすることで国家も安定するだろうとの願いを込めて『百済』に改名したといわれている。(発音は同じく『ハクサイ』)
朝鮮の長い歴史の中で、『百済』の発音として『くだら』と呼ばれたことは一度もなく、『ハクサイ』。日本人のみが『くだら』と発音していた。(但し13世紀以降の李朝時代にハングル語が作られて以来『ペクチェ』と発音されている。)
つまり、この日本の百済寺は創建当初以来「ひゃくさい寺」と呼ばれていたことになる。
なお、百済が「くだら」と発音されるようになったのは、白村江の戦(663年)後に天智天皇が大量の百済人を近江に受入れて蒲生野が開かれ奈良時代が始まった頃からだと推定されている。
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