雲南旅行から帰って来て、やたらとお刺身や海の物が食べたくなり、知多半島へ。
師崎にある あら井でヒラメのお刺身などを食べた後、少し観光をし、その後 「日曜夕市」 に行くことにした。
尾州廻船 内海船船主 内田佐七家
週末と祭日のみ一般公開している。ボランティアガイドさんが案内して下さった。

初代内田佐七が文政元年(1818年)に廻船業を始めた。このお屋敷は明治2年(1869年)竣工のもの。

弁財船(べざいせん)に使われた帆のロープを巻く道具などが未だ残っている。
船は長さ25メートル、幅13~14メートル程度。当時は船の長さで税金がかけられていた。
北前船はこれよりも大きいが、北前船は12月~翌年3月までは休み、4月に大阪を出て瀬戸内→北陸→北海道と回って11~12月頃に大阪は淀川に戻る1年に1度の航海だったのに対し、この内海船は、下関→瀬戸内海→江戸までの区間で年に4回航行していた。
北前船と同様、物を各地で買っては売る、船の商社のような商売。
内田家では、7隻もの弁財船を所有し、現在に換算すると一隻が2億円相当。

お座敷の上の間や次の間には、天井板に屋久杉が使われている。

主屋の仏間・神間。
神間の方が仏間よりも奥にある。

左から金比羅宮、三重の多賀大社、伊勢神宮、熱田神宮、静岡の秋葉神社が祀られている。


右の台座が太い灯篭は三河灯篭、左の台座の細い方は春日井灯篭。
縁側の板の間にも畳が敷けるようになっていて、戎講などの集まりの時にはお座敷に100名は集まれるようになっていた。

客人用のお茶室、そしてその奥には
湯殿や厠など。
1年で4~5回程度しか使われなかった。



4代目佐七氏が書いた4種類の字体によるさまざまな書。
その上には、苗字帯刀を許されていたので、槍がかかるようになっている。

大きな大黒柱はないが、太い梁を組んだ
小屋組となっている。
明治23年の濃尾地震や、昭和34年の
伊勢湾台風にも全く動じなかった免震建築に
なっているのだそう。
4代目の内田佐七氏は、敷島パン(現在のパスコ)の創始者のひとりでもあり、知多バスや、UFJ銀行(東海銀行)の前身である知多銀行なども創った。佐七氏が昭和44年までここに住んでおられたが、当時から別宅などもあった為、6代目の方がこの建物を寄進、現在も8代目が別の場所におられるのだそう。

内海港
豊浜港の日曜夕市

昨年10月から12月まで日曜の夕方4時から行われていたものだが、期間を延長されることになった。
すぐ近くの「お魚ひろば」よりも規模はずっと小さいが、少しお安めな印象。
このモガレイとイシガレイの2匹で600円。
家に持ち帰っても、モガレイは未だ未だ元気に跳ね返っていて、非常に美味しかった。

他にも、大アサリ18個で800円、小さ目のヒイカが一盛(思わず数えてしまったが62匹入っていた!)を300円でゲットし、大満足の夕飯となった。
お天気が良かったので、しばし高台で満月や夕日を楽しむことに。


師崎にある あら井でヒラメのお刺身などを食べた後、少し観光をし、その後 「日曜夕市」 に行くことにした。
尾州廻船 内海船船主 内田佐七家
週末と祭日のみ一般公開している。ボランティアガイドさんが案内して下さった。

初代内田佐七が文政元年(1818年)に廻船業を始めた。このお屋敷は明治2年(1869年)竣工のもの。
屋根には、かまどの
煙出しがある。
煙出しがある。

弁財船(べざいせん)に使われた帆のロープを巻く道具などが未だ残っている。
船は長さ25メートル、幅13~14メートル程度。当時は船の長さで税金がかけられていた。
北前船はこれよりも大きいが、北前船は12月~翌年3月までは休み、4月に大阪を出て瀬戸内→北陸→北海道と回って11~12月頃に大阪は淀川に戻る1年に1度の航海だったのに対し、この内海船は、下関→瀬戸内海→江戸までの区間で年に4回航行していた。
北前船と同様、物を各地で買っては売る、船の商社のような商売。
内田家では、7隻もの弁財船を所有し、現在に換算すると一隻が2億円相当。

お座敷の上の間や次の間には、天井板に屋久杉が使われている。

主屋の仏間・神間。
神間の方が仏間よりも奥にある。

左から金比羅宮、三重の多賀大社、伊勢神宮、熱田神宮、静岡の秋葉神社が祀られている。
手前の庭の踏石は京都の鞍馬石、奥の踏石は
神奈川の根府川石、他にも小豆島の石などを使い、
ナマコ壁や網代塀を施している。
神奈川の根府川石、他にも小豆島の石などを使い、
ナマコ壁や網代塀を施している。


右の台座が太い灯篭は三河灯篭、左の台座の細い方は春日井灯篭。
縁側の板の間にも畳が敷けるようになっていて、戎講などの集まりの時にはお座敷に100名は集まれるようになっていた。

客人用のお茶室、そしてその奥には
湯殿や厠など。
1年で4~5回程度しか使われなかった。

家族の寝室には、箱階段。


4代目佐七氏が書いた4種類の字体によるさまざまな書。
その上には、苗字帯刀を許されていたので、槍がかかるようになっている。
遠州灘や紀州灘は遭難しやすいことから、金比羅山のこの
御札を貰い受けていた。当時でこのお札が現在の約100万円に
相当するが、毎年もらい受けていた。
御札を貰い受けていた。当時でこのお札が現在の約100万円に
相当するが、毎年もらい受けていた。

大きな大黒柱はないが、太い梁を組んだ
小屋組となっている。
明治23年の濃尾地震や、昭和34年の
伊勢湾台風にも全く動じなかった免震建築に
なっているのだそう。
4代目の内田佐七氏は、敷島パン(現在のパスコ)の創始者のひとりでもあり、知多バスや、UFJ銀行(東海銀行)の前身である知多銀行なども創った。佐七氏が昭和44年までここに住んでおられたが、当時から別宅などもあった為、6代目の方がこの建物を寄進、現在も8代目が別の場所におられるのだそう。

内海港
大根が干されていた。
豊浜港の日曜夕市

昨年10月から12月まで日曜の夕方4時から行われていたものだが、期間を延長されることになった。
すぐ近くの「お魚ひろば」よりも規模はずっと小さいが、少しお安めな印象。
このモガレイとイシガレイの2匹で600円。
家に持ち帰っても、モガレイは未だ未だ元気に跳ね返っていて、非常に美味しかった。

他にも、大アサリ18個で800円、小さ目のヒイカが一盛(思わず数えてしまったが62匹入っていた!)を300円でゲットし、大満足の夕飯となった。
お天気が良かったので、しばし高台で満月や夕日を楽しむことに。

渥美半島がくっきり良く見える。


中部国際空港(セントレア)が近いので
夕陽を浴びながら何機も着陸して行っていた。
紀伊半島の山々の向こうに日が沈んでいく。
夕陽を浴びながら何機も着陸して行っていた。

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