昨秋から年末まで江戸東京博物館で展覧会をしていたものが名古屋に回って来たので行ってみた。
絵画や工芸、服飾品など143点が展示されている。(画像はHPと中日新聞より)

「1500年の
ヴェネツィア」
ヤーコポ・デ・バルバリ
6枚の版木をつなぎ
合わせた木版画。
500年前と現在とでもほとんど変わっていない。測量技師たちが高い所から描いた写生画をバルバリが編集し遠近法で描いたもの。
もともとこの場所は単なるラグーンだったが、ローマ帝国が滅びた頃にやって来た人達が長い杭を数多く打ち込んで上に石を乗せ、500年ぐらい前には今現在のような形の島を造り上げた。
周囲には八方位の風の神様が風を吹かせている様子と、南側の海には海の神であるネプトゥヌス(ネプチューン)、天上には商業の神であるメルクリウス(マーキュリー)が描かれ、海上貿易の共和国であることがわかる。
因みに、ヴェネツィアは現在も車も自転車も乗り入れ禁止。

聖マルコがヴェネツイア共和国の守護聖人。そのマルコはライオンがシンボルでもある。前足は陸上、後ろ足が海の上にあるのは、陸にも海にも広がっている国という意味で、当時イタリア半島のミラノあたりまでヴェネツィアの領土だった。

「マルコ・ポーロの帰還」
レオナルド・ガヴァニン 1848年頃
ヴェネツィアの裕福な商人の子供だったマルコ・ポーロは、1271年に17歳で父親とアジアに向けて出発し、24年後の1295年に帰国。その旅行した距離は全長15000キロにも及んだのだそう。
東方見聞録は、捕虜になったマルコが牢獄で他の仲間に語った話が口述筆記されたもの。


「総督ジョヴァンニ・モチェニーゴの肖像」
ジェンティーレ・ベッリーニ 1478~1479年
ヴェネツィア派の中で大きな役割を果たした画家で
ティツィアーノやティントレットなどが彼の流れをくむ。
コルノ総督であることを示す帽子は、修道院長より授けられる。
総督選びには、不正が行われないように11回の投票と
数回のくじ引きで選挙を行う。歴代の総督は120代いた。
ベッリーニと言うカクテルがあるが、この一族から
連想して「ハリーズ・バー」で作られた。


「総督モロジーニの祈祷書と銃」 17世紀
くりぬいた本の中にある銃は、総督モロジーニの
護身用のもの。


カ・レッツォーニコ様式のシャンデリア
19~20世紀
レッツォーニコ宮殿の為に造られた。
約500パーツに分けて輸送され、組立に3日かかったのだそう。
原材料や燃料がないヴェネツィアにおいて、ガラス工芸の技術を守る必要があった為、1291年にムラーノ島にガラス職人達は強制移住させられ、逃げることも不可能だった。
しかし、連れ出された職人がヴェルサイユ宮殿の鏡の間のガラスを作ることとなったのだそう。



18世紀の礼服
男性用礼服の燕尾服とキュロット・ベスト 1750~1775年
女性用 アンドロスの婦人用ドレス 18世紀後半
他にも、木靴や女性が背を高く見せる為の
カルカニエッティがあった。
50センチの高さの物もあり、法律で禁止された。
「香水売り」 ピエトロ・ロンギ
1750~1752年
18世紀の風俗画家。
謝肉祭でどんちゃん騒ぎをする時や、リドットという
共和国公認の賭博場に行く時には顔を隠していた。
男性の仮面やマントはその富をひけらかさない為の
ものでもあったが、乱用されてより風紀が乱れ、
カーニヴァルの時以外のマント着用禁止令が
発布されたが、18世紀は誰もがマントを着ていた。

「聖母子」 ジョヴァンニ・ベッリーニ 1470年頃
フィレンツエの画家は形を重視したのに対し、
ヴェネツィア派は柔らかな輪郭や光や色を重視した。
日本初公開。


「柱廊のあるカプリッチョ(奇想画)」
カナレット 1775年頃
実際には建築できないような建物の
構図になっている。
「天国(下絵)」

因みに・・・
二人の貴婦人 ヴィットーレ・カルパッチョ
世界で一番美しい板絵と言われた。
「二人の高級娼婦」と言われていたが、半世紀前に変わった。
カルパッチョの「ラグーナでの狩猟」が発見され、下半分が
女性の絵、上半分が海の絵と判明。
左半分もあるはずだが、未だ見つかっていない。
右の植木鉢は婚姻を、左の花瓶の百合は純潔処女性を
表し、高級娼婦から恋人を待っている貴婦人と言う解釈に変わった。
非常に残念なのだが、東京でのみ公開され、他の地域には
巡回して来なかった。。。
東京、愛知の後は、宮城、愛媛、京都、広島と回る巡回展なので、1年以上日本に来ていることになる。

博物館の 常設展 をさらっとだが見学。
2009年に発見された、平手町遺跡(北区平手町)から出土した船形木棺は弥生時代中期(約2000年前)のもので、実際の木質が残り、明確な船の形をしている木棺では日本最古のもの。大きさは長さ2.8メートル、最大幅1メートルに及ぶ巨大なもので、死者を舟にのせ遠くにある死者の世界へ送り出す「舟葬」という儀式に用いられたとも言われている。
絵画や工芸、服飾品など143点が展示されている。(画像はHPと中日新聞より)

「1500年の
ヴェネツィア」
ヤーコポ・デ・バルバリ
6枚の版木をつなぎ
合わせた木版画。
500年前と現在とでもほとんど変わっていない。測量技師たちが高い所から描いた写生画をバルバリが編集し遠近法で描いたもの。
もともとこの場所は単なるラグーンだったが、ローマ帝国が滅びた頃にやって来た人達が長い杭を数多く打ち込んで上に石を乗せ、500年ぐらい前には今現在のような形の島を造り上げた。
周囲には八方位の風の神様が風を吹かせている様子と、南側の海には海の神であるネプトゥヌス(ネプチューン)、天上には商業の神であるメルクリウス(マーキュリー)が描かれ、海上貿易の共和国であることがわかる。
因みに、ヴェネツィアは現在も車も自転車も乗り入れ禁止。

「サン・マルコの
ライオン」
ヴィットーレ・
カルパッチョ 1516年
ライオン」
ヴィットーレ・
カルパッチョ 1516年
聖マルコがヴェネツイア共和国の守護聖人。そのマルコはライオンがシンボルでもある。前足は陸上、後ろ足が海の上にあるのは、陸にも海にも広がっている国という意味で、当時イタリア半島のミラノあたりまでヴェネツィアの領土だった。

「マルコ・ポーロの帰還」
レオナルド・ガヴァニン 1848年頃
ヴェネツィアの裕福な商人の子供だったマルコ・ポーロは、1271年に17歳で父親とアジアに向けて出発し、24年後の1295年に帰国。その旅行した距離は全長15000キロにも及んだのだそう。
東方見聞録は、捕虜になったマルコが牢獄で他の仲間に語った話が口述筆記されたもの。

ガレー船の模型 17世紀
古代ローマやギリシャ時代から使われていたがヴェネツィアは商船としても使うようになった。
44櫂式。
衝角というものが先端にあり、敵の船を突き刺し
たり、大砲も備え、艦隊を組んで攻めていた。
1104年に創設された国立造船所があり
ヨーロッパで一番大きな造船所となった。
衝角というものが先端にあり、敵の船を突き刺し
たり、大砲も備え、艦隊を組んで攻めていた。
1104年に創設された国立造船所があり
ヨーロッパで一番大きな造船所となった。

「総督ジョヴァンニ・モチェニーゴの肖像」
ジェンティーレ・ベッリーニ 1478~1479年
ヴェネツィア派の中で大きな役割を果たした画家で
ティツィアーノやティントレットなどが彼の流れをくむ。
コルノ総督であることを示す帽子は、修道院長より授けられる。
総督選びには、不正が行われないように11回の投票と
数回のくじ引きで選挙を行う。歴代の総督は120代いた。
ベッリーニと言うカクテルがあるが、この一族から
連想して「ハリーズ・バー」で作られた。

真実の口 17世紀
あまりにも有名な真実の口は、ローマのサンタ・マリア・イン・
コスメディン教会にあり、手を口に入れると嘘つきな者は
手が抜けなくなるという伝説があった。
しかし、ヴェネツィアのこれは密告用投書箱。
犯罪を密告する為のもので、宮殿の内部などにもあり、
密告されると十人会議で調査・処分を行われた。
あまりにも有名な真実の口は、ローマのサンタ・マリア・イン・
コスメディン教会にあり、手を口に入れると嘘つきな者は
手が抜けなくなるという伝説があった。
しかし、ヴェネツィアのこれは密告用投書箱。
犯罪を密告する為のもので、宮殿の内部などにもあり、
密告されると十人会議で調査・処分を行われた。

「総督モロジーニの祈祷書と銃」 17世紀
くりぬいた本の中にある銃は、総督モロジーニの
護身用のもの。

ゴンドラの先端につける飾りのフェッロ
現在は統一されているが、当時は自分の家の権勢を
誇るものとして派手な装飾が施された。
現在のデザインは、コルノ(総督帽)と歯のような
部分が6区(セスティーレ)を表す。
少なくとも900年前からゴンドラがあり、
ゴンドリエーレは世襲で男性だけだったが、
2009年から女性もなれるようになった。
誇るものとして派手な装飾が施された。
現在のデザインは、コルノ(総督帽)と歯のような
部分が6区(セスティーレ)を表す。
少なくとも900年前からゴンドラがあり、
ゴンドリエーレは世襲で男性だけだったが、
2009年から女性もなれるようになった。

カ・レッツォーニコ様式のシャンデリア
19~20世紀
レッツォーニコ宮殿の為に造られた。
約500パーツに分けて輸送され、組立に3日かかったのだそう。
原材料や燃料がないヴェネツィアにおいて、ガラス工芸の技術を守る必要があった為、1291年にムラーノ島にガラス職人達は強制移住させられ、逃げることも不可能だった。
しかし、連れ出された職人がヴェルサイユ宮殿の鏡の間のガラスを作ることとなったのだそう。

金箔と可溶性多色エナメルによるスレート模様と
花の渦巻き模様で装飾されたクリスタル製水差し
ムラーノ製 15世紀末~16世紀初頭
幾何模様や植物文様などから、イスラム的、そして
ヴェネツィア的起源がうかがい知れる水差し。
花の渦巻き模様で装飾されたクリスタル製水差し
ムラーノ製 15世紀末~16世紀初頭
幾何模様や植物文様などから、イスラム的、そして
ヴェネツィア的起源がうかがい知れる水差し。


18世紀の礼服
男性用礼服の燕尾服とキュロット・ベスト 1750~1775年
女性用 アンドロスの婦人用ドレス 18世紀後半
他にも、木靴や女性が背を高く見せる為の
カルカニエッティがあった。
50センチの高さの物もあり、法律で禁止された。

1750~1752年
18世紀の風俗画家。
謝肉祭でどんちゃん騒ぎをする時や、リドットという
共和国公認の賭博場に行く時には顔を隠していた。
男性の仮面やマントはその富をひけらかさない為の
ものでもあったが、乱用されてより風紀が乱れ、
カーニヴァルの時以外のマント着用禁止令が
発布されたが、18世紀は誰もがマントを着ていた。

「聖母子」 ジョヴァンニ・ベッリーニ 1470年頃
フィレンツエの画家は形を重視したのに対し、
ヴェネツィア派は柔らかな輪郭や光や色を重視した。
日本初公開。

「聖母子と洗礼者聖ヨハネ」
ヴィットーレ・カルパッチョ 1485~1490年頃
お料理のカルパッチョは彼の苗字からきている。
彼の描いた赤がお料理の肉のカルパッチョに似ている
と言う色説、1931年にオープンした老舗の「ハリーズ・バー」がイメージして作った料理説、伯爵夫人が
医者から加熱した肉を食べることを禁じられていた為、
加熱しない肉を料理人が出したところその料理名を
尋ねられたので料理人がとっさにこの画家の
名前を言った説など。。。
お料理のカルパッチョは彼の苗字からきている。
彼の描いた赤がお料理の肉のカルパッチョに似ている
と言う色説、1931年にオープンした老舗の「ハリーズ・バー」がイメージして作った料理説、伯爵夫人が
医者から加熱した肉を食べることを禁じられていた為、
加熱しない肉を料理人が出したところその料理名を
尋ねられたので料理人がとっさにこの画家の
名前を言った説など。。。

「柱廊のあるカプリッチョ(奇想画)」
カナレット 1775年頃
実際には建築できないような建物の
構図になっている。

ティントレットと彼の工房
1582年頃
ヴェネツィアの国会議事堂にあたる
ドゥカーレ宮殿の大評議会の間の
壁画の下絵。
下絵と言っても大きい。
当時の画家は、字名で呼ばれる
ことが多く、ティントレットは染物師
(ティントーレ)から来ている。
ドゥカーレ宮殿の大評議会の間の
壁画の下絵。
下絵と言っても大きい。
当時の画家は、字名で呼ばれる
ことが多く、ティントレットは染物師
(ティントーレ)から来ている。

因みに・・・
二人の貴婦人 ヴィットーレ・カルパッチョ
世界で一番美しい板絵と言われた。
「二人の高級娼婦」と言われていたが、半世紀前に変わった。
カルパッチョの「ラグーナでの狩猟」が発見され、下半分が
女性の絵、上半分が海の絵と判明。
左半分もあるはずだが、未だ見つかっていない。
右の植木鉢は婚姻を、左の花瓶の百合は純潔処女性を
表し、高級娼婦から恋人を待っている貴婦人と言う解釈に変わった。
非常に残念なのだが、東京でのみ公開され、他の地域には
巡回して来なかった。。。
東京、愛知の後は、宮城、愛媛、京都、広島と回る巡回展なので、1年以上日本に来ていることになる。

博物館の 常設展 をさらっとだが見学。
2009年に発見された、平手町遺跡(北区平手町)から出土した船形木棺は弥生時代中期(約2000年前)のもので、実際の木質が残り、明確な船の形をしている木棺では日本最古のもの。大きさは長さ2.8メートル、最大幅1メートルに及ぶ巨大なもので、死者を舟にのせ遠くにある死者の世界へ送り出す「舟葬」という儀式に用いられたとも言われている。
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