知多半島にある佐布里(そうり)に梅を観に行った。


佐布里梅(そうりうめ)は、明治時代初頭、桃の木に梅を接ぎ木することで作りだされたもので、梅と桃の特長を持つ。花粉が多いために鈴なりになるほど実をつけ、果肉が柔らかく肉厚で核が小さく、漬け梅や梅酒に適している。
開花時期はやや遅く、樹齢は長い方で、成果期が樹齢20~35年、そして40~50年で老木となる。
歴史的には、明治に作られ、大正末期から昭和初期はその全盛期となって 「佐布里梅林」 として観賞され、当時は佐布里地区の梅の98%が佐布里梅となり、後は青軸があった程度だった。
昭和中期になると、昭和29年の台風や、昭和34年の伊勢湾台風で被害を受け、梅林の約80%が倒れ、昭和35年頃からダム建設が始まったことで、佐布里地区の営農梅林は佐布里池に沈んで衰退していった。
佐布里池完成後の昭和40年代に、再び地元の人達が梅を植えはじめ、戦前ほどには至らないが、現在25種類・約4600本が復活したのだそう。
佐布里ダムによって出来た佐布里池。傍らには、「水の生活館」があり、水に関するものが色々と展示されていた。全く知らなかったのだが、知多半島は昔から水に悩まされ、井戸水も赤い色をするなど真水がなく、現在ははるか長良川から水路を引いて水を供給している。一方、名古屋市内は木曽川水系。
恥ずかしながら、「佐布里」 を勝手に 「さぶり」 とでも読むのかと思っていたのだが、今回行ってみて初めて 「そうり」 と発音すると知った。。。この地名は 「佐布里」 「佐宇里」 「佐布利」 と書き、「さふり」 「そーりー」 と発音すると文献にあるが、現在の 「佐布里」 は江戸時代以前から使われていた。
もともと、佐布里南部にある溜池から流れ出る水が、途中で東谷と西谷の左右に分かれる場所である二張の杁(にちょうのいり)があったことから、「左右入(さういり)」 という村の名前となったという説がある。

雲の曙

冬至


白難波

鶯宿(おうじゅく)

青軸


八重茶青(やえちゃせい)

枝垂紅梅

白加賀




柳の花も徐々に




この後、知多木綿発祥の地である、岡田地区へ町並みを見に行った。その様子は こちら


佐布里梅(そうりうめ)は、明治時代初頭、桃の木に梅を接ぎ木することで作りだされたもので、梅と桃の特長を持つ。花粉が多いために鈴なりになるほど実をつけ、果肉が柔らかく肉厚で核が小さく、漬け梅や梅酒に適している。
開花時期はやや遅く、樹齢は長い方で、成果期が樹齢20~35年、そして40~50年で老木となる。
歴史的には、明治に作られ、大正末期から昭和初期はその全盛期となって 「佐布里梅林」 として観賞され、当時は佐布里地区の梅の98%が佐布里梅となり、後は青軸があった程度だった。
昭和中期になると、昭和29年の台風や、昭和34年の伊勢湾台風で被害を受け、梅林の約80%が倒れ、昭和35年頃からダム建設が始まったことで、佐布里地区の営農梅林は佐布里池に沈んで衰退していった。
佐布里池完成後の昭和40年代に、再び地元の人達が梅を植えはじめ、戦前ほどには至らないが、現在25種類・約4600本が復活したのだそう。

恥ずかしながら、「佐布里」 を勝手に 「さぶり」 とでも読むのかと思っていたのだが、今回行ってみて初めて 「そうり」 と発音すると知った。。。この地名は 「佐布里」 「佐宇里」 「佐布利」 と書き、「さふり」 「そーりー」 と発音すると文献にあるが、現在の 「佐布里」 は江戸時代以前から使われていた。
もともと、佐布里南部にある溜池から流れ出る水が、途中で東谷と西谷の左右に分かれる場所である二張の杁(にちょうのいり)があったことから、「左右入(さういり)」 という村の名前となったという説がある。

雲の曙

冬至

紅千鳥

白難波

鶯宿(おうじゅく)

青軸

鹿児島紅梅

八重茶青(やえちゃせい)

枝垂紅梅

白加賀



梅のみならず、春を感じさせてくれる植物も
少しではあるが見ることが出来た。
少しではあるが見ることが出来た。

柳の花も徐々に

ホトケノザ(春の七草とは別種)



この後、知多木綿発祥の地である、岡田地区へ町並みを見に行った。その様子は こちら
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