2日目の午後は、今回の旅行でも一番楽しみにしていた 万里の長城 へ。
言わずと知れた世界遺産。秦、漢、明の時代にそれぞれ造られた長城の全長は約8858キロ。平均7.8メートル、幅6.5メートル、上部でも幅5.8メートル、兵士が横に10人並んで歩け、馬でも5頭が並べる幅がある。
明の時代には、1華里=約500メートルとし、12700華里の長さがあったので1万キロには満たないが、1万華里は超えていたので「万里」と言われるようになった。北海道から九州までの距離の2.5倍の長さに当たる。

北京中心部から75キロ離れた八達嶺長城へ。
「八達」とは、中国語で四方八方の意味があるのだそう。
ロープウェイで行くことが出来る。
ロープウェイは1996年から運行され、昨年3か月間も止めて点検した際は、観光客も足で登るしかなかったのだそう。
もともと秦の始皇帝は、北方騎馬民族と戦っていたので、長城を造ることに。長城からは弓や石で応戦し、国境線を示す意味もあったが、外敵を作って国内をまとめるという意味でもあった。建設担当の将軍である蒙恬(モウテン)も始皇帝没後(BC210年)にすぐに亡くなって長城の建設は終わり、秦も滅亡。
紀元前2~1世紀の漢の時代、武帝の時代は中央アジア西域との交易も盛んでシルクロードが生まれ、長城もシルクロードまで延長された。北方との防護壁のみならず、壁の北側の民族は羊の放牧を行い、南側はその羊皮を買うなどの公益も中部地方で行われるようになり、富を守る為のものともなっていった。
1500年後の明の時代(15~17世紀)に再建。北方方面の防御として堡(ホ)という兵士の駐屯地を置いていたが、1449年の「土木の変」で第6代皇帝の正統帝が捕虜となって1年間幽閉されたことから、長城の必要性が再認識され、高さ7メートルの壁の長城を造り、北方防御の為の兵力の数をも減らすことに成功した。
東は渤海の老龍頭が起点で、煉瓦は普通の煉瓦の4倍の大きさで重さは約10~20キロ。天日で1ヶ月干し、2週間の窯焼きをへてから4日間水で蒸らし再度4日間焼くという作業で造られる。石の上に土を突き固めた場所に煉瓦を置いて行った。建築当時は、煉瓦の工房が数百あり、週平均で約50万個の煉瓦が生産された。
倭寇で功績をあげた戚継光という軍人がその功績を認められて、長城再建を命じられ1575年に完成。明は当初、防衛よりも商売を優先としていたが、モンゴルからも攻め入られていた為、農民に太極拳などの古武道を教えるなどし、そのシステムが現在の中国軍の基礎ともなっているのだそう。
因みに、現存している長城のほとんどは明時代のものだが、明の長城は東から3000キロの位置で終わり、一番長い長城を建設したのは漢の時代、そして明、そして一番短いのが秦の時代の長城となり、重複部分も併せた総延長距離は5万キロにも達するのだそう。



守るべき北京側の壁は低く、北側の壁は高くなっている。


延々と続く長城はやはり圧巻。
ようやく、この界隈の長城では一番高い
砦のある部分に到着。
最高地点で海抜1015メートル。
観光客も多く、勾配もあるので結構大変。

因みに、中国人観光客の間でも、故宮よりもこの万里の長城が一番の人気なのだそう。

下のロープウェイ乗り場の近くには、ライラックが綺麗に咲いていた。

全聚徳 にて夕食を。














このお店の名物である北京ダックを。さすがに美味しかった。


北京ダックは、江南のアヒル、中国西域のパンを焼く窯、そして山東省などの小麦粉の皮で巻いて食べるという食文化が融合して出来たもので、明の永楽帝が南京から北京に遷都した際に、料理人なども同行させ、金陵ダックという宮廷料理だったものが北京の一般の人達にも広まっていったのだそう。
この後、王府井に行き、デパ地下巡りやフードコートで夜食?を。その様子は<7>で。
言わずと知れた世界遺産。秦、漢、明の時代にそれぞれ造られた長城の全長は約8858キロ。平均7.8メートル、幅6.5メートル、上部でも幅5.8メートル、兵士が横に10人並んで歩け、馬でも5頭が並べる幅がある。
明の時代には、1華里=約500メートルとし、12700華里の長さがあったので1万キロには満たないが、1万華里は超えていたので「万里」と言われるようになった。北海道から九州までの距離の2.5倍の長さに当たる。


北京中心部から75キロ離れた八達嶺長城へ。
「八達」とは、中国語で四方八方の意味があるのだそう。
ロープウェイで行くことが出来る。
ロープウェイは1996年から運行され、昨年3か月間も止めて点検した際は、観光客も足で登るしかなかったのだそう。


紀元前2~1世紀の漢の時代、武帝の時代は中央アジア西域との交易も盛んでシルクロードが生まれ、長城もシルクロードまで延長された。北方との防護壁のみならず、壁の北側の民族は羊の放牧を行い、南側はその羊皮を買うなどの公益も中部地方で行われるようになり、富を守る為のものともなっていった。
1500年後の明の時代(15~17世紀)に再建。北方方面の防御として堡(ホ)という兵士の駐屯地を置いていたが、1449年の「土木の変」で第6代皇帝の正統帝が捕虜となって1年間幽閉されたことから、長城の必要性が再認識され、高さ7メートルの壁の長城を造り、北方防御の為の兵力の数をも減らすことに成功した。
東は渤海の老龍頭が起点で、煉瓦は普通の煉瓦の4倍の大きさで重さは約10~20キロ。天日で1ヶ月干し、2週間の窯焼きをへてから4日間水で蒸らし再度4日間焼くという作業で造られる。石の上に土を突き固めた場所に煉瓦を置いて行った。建築当時は、煉瓦の工房が数百あり、週平均で約50万個の煉瓦が生産された。
倭寇で功績をあげた戚継光という軍人がその功績を認められて、長城再建を命じられ1575年に完成。明は当初、防衛よりも商売を優先としていたが、モンゴルからも攻め入られていた為、農民に太極拳などの古武道を教えるなどし、そのシステムが現在の中国軍の基礎ともなっているのだそう。
因みに、現存している長城のほとんどは明時代のものだが、明の長城は東から3000キロの位置で終わり、一番長い長城を建設したのは漢の時代、そして明、そして一番短いのが秦の時代の長城となり、重複部分も併せた総延長距離は5万キロにも達するのだそう。


結構な勾配の部分もあり、高齢者の方などは後ろ向きで降りておられた。

守るべき北京側の壁は低く、北側の壁は高くなっている。



ようやく、この界隈の長城では一番高い
砦のある部分に到着。
最高地点で海抜1015メートル。
観光客も多く、勾配もあるので結構大変。

因みに、中国人観光客の間でも、故宮よりもこの万里の長城が一番の人気なのだそう。

下のロープウェイ乗り場の近くには、ライラックが綺麗に咲いていた。

全聚徳 にて夕食を。


まずはビールを。
そして紹興酒などと共に。
そして紹興酒などと共に。












このお店の名物である北京ダックを。さすがに美味しかった。


ダックのスープはあっさり。
北京ダックは、江南のアヒル、中国西域のパンを焼く窯、そして山東省などの小麦粉の皮で巻いて食べるという食文化が融合して出来たもので、明の永楽帝が南京から北京に遷都した際に、料理人なども同行させ、金陵ダックという宮廷料理だったものが北京の一般の人達にも広まっていったのだそう。
この後、王府井に行き、デパ地下巡りやフードコートで夜食?を。その様子は<7>で。
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