王府井大街から少し横町に入ると、朝早くから地元の人達の朝食を出す「早点」なるお店が何軒かある。「早点」はもともと台所が家の中にない昔ながらの家並みである胡同(ふーとん)の人達の為のものだったとか。

見せの外で揚げパンの油条を揚げているお店があったので、朝食をそこでとることに。


順次並んで、次々蒸し上がってくる肉まんや餃子、油条やお粥を注文していく方式。お漬物はセルフで取り放題。
お粥は粟か何かのようでプツプツとした食感であっさり。肉まんと餃子の中身は同じ豚肉を主流にしたものだった。
ついつい、朝からたくさん食べてしまった。
北京城東南角楼

明の時代、1439年に建立された城壁や、そこにある角楼に登ってみた。
北京城の城壁は40キロあったのだが、文革で取り壊され、現在残っているのはわずか1.5キロ。

高さ12メートルの城壁の上に、高さ17メートルの角楼が建っている。

旗杵石
清の時代には8つの部隊によって街が守られており、
この場所は青い旗の部隊が守っていた。
石に青い旗を掲揚していたもの。

昔の角楼の様子や、死刑執行時に使用された刀なども展示されている。


北京駅のすぐそばにあるので、高速鉄道の和階号を見ることが出来た。その奥には、昨年10月に工事が終わった高さ330メートル、74階建ての北京で一番高い国際貿易センターなどのビル群がある。

北京駅の文字は毛沢東の文字で、ほかには北京飯店、北京空港の文字も彼の手によるもの。


天壇公園
世界遺産。明と清の皇帝が五穀豊穣を願って祭祀を行った場所。総面積は273万平米あり、頤和園(いわえん) とほぼ同じ広さで、天安門広場の7倍、伊勢神宮の内宮と外宮を併せた面積よりも広い。
天・地・日・月をそれぞれ祀っており、天壇公園は南に位置して天を、北には地壇公園、東には日壇公園、西には月壇公園がある。
まず公園内に入ると、高齢者の多いことに驚かされる。75~80%の年金を受給できるので、定年後の人達が年間パスを購入して公園に集っているもので、それぞれ太極拳や将棋のようなものなどを楽しんでいる。


外国人観光客にも太極拳を教えていたり(左)、剣を持っている青いポロシャツの人が先生で高齢者に教えていたり(右)。



丸い将棋のような駒だったり、サイコロを使ったゲームなどをしていて、
ギャラリーも多い。

記念殿
大理石で出来た3層の基壇の上に立った3層の瑠璃瓦の建物は、高さが39メートル、直径30メートル。
もともと、永楽帝が南京から北京に遷都した時に建立されたもので、地獄界、人間界、天上界を現している。
現在のものは焼失した為に1889年に復元されたものだが、釘は一本も使われず木造のみ。
明と清の18人の皇帝は旧暦の1月15日と当時の日に感謝の意を表す祀りごとを行った。
祀りの前の3日間は、皇帝も酒・たばこ・穀物を食べることも禁じられ、女性に触ることも出来なかったのだそう。
古来の思想と政治が結びついた場所でもあった。

皇帝を現す龍の柱が並び、4本の大きな柱は四季を、12本の柱は12か月を、28本の柱は星座を現しており、立春などの24の季節をも表現している。

テーブルのお位牌は天の物として
愛新覚羅ファミリーの祖先のお位牌。

3段の基壇には、上段が皇帝をあらわす龍の望柱と出水がある。

二段目が鳳凰の望柱と出水




皇乾殿
記念殿に祀られた神位の供養を行った場所。
紫薇軒

愛新覚羅家は清の皇帝として、267年間を統治しており、11代目の愛新覚羅溥儀氏が1911年に退位するまで続いた。愛新覚羅家は現在200名ほどいるが、そのほとんどは天津に住んでいる。
最後の皇帝である愛新覚羅溥儀氏には子供はない。溥儀氏の弟である溥傑氏は、1937年に明治天皇のいとこである嵯峨浩さんと結婚し、二人の娘のうちの慧生さんは無理心中をして伊豆で亡くなっているが、もう一人の娘である嫮生さんは現在も神戸におられるとのこと。溥傑氏は1994年に亡くなっている。
溥傑氏は、書家としても有名で、1960~70年代には彼の掛け軸は1000~2000円程度のものだったが、現在は1本300万円もするのだそう。書も大事だが、そこに押される落款(はんこ)も同じぐらい重要。また、文字よりも書家による絵画は漢字がわからない外国でも認められやすいので高価なのだとか。
現代の書家で有名なのは、愛新覚羅溥傑、毛沢東、郭沫若(かくまつじゃく)の3名とのこと。

その13代目にあたる71歳の愛新覚羅恒珏(あいしんかくらこうかく)氏とおっしゃる方が、天津に住んでおられるが、週末には北京の天壇公園の紫薇軒で書のデモンストレーションと共に書画の販売をしているとのこと。
写真撮影はダメだったが、購入した人とだけは写真が撮れると・・・
(この画像は外にあったパネルより)
文革時の4人組に痛めつけられない為に、愛新覚羅恒珏という名前を伏せて、送という自のシンニョウがない字が苗字、名前を維霖として過ごされていたのだそう。恒珏では名前の検索が出来ないが、変えた名前だとウェブで出て来るとのことだったが、あまり良くわからず、、、
この後、地元の市場を観に行き、昼食後は故宮へ。その様子は追って。

見せの外で揚げパンの油条を揚げているお店があったので、朝食をそこでとることに。



順次並んで、次々蒸し上がってくる肉まんや餃子、油条やお粥を注文していく方式。お漬物はセルフで取り放題。
お粥は粟か何かのようでプツプツとした食感であっさり。肉まんと餃子の中身は同じ豚肉を主流にしたものだった。
ついつい、朝からたくさん食べてしまった。
北京城東南角楼

明の時代、1439年に建立された城壁や、そこにある角楼に登ってみた。
北京城の城壁は40キロあったのだが、文革で取り壊され、現在残っているのはわずか1.5キロ。

高さ12メートルの城壁の上に、高さ17メートルの角楼が建っている。

旗杵石
清の時代には8つの部隊によって街が守られており、
この場所は青い旗の部隊が守っていた。
石に青い旗を掲揚していたもの。
角楼の中は3階建てで、展示物を見学することが出来る。

昔の角楼の様子や、死刑執行時に使用された刀なども展示されている。


北京駅のすぐそばにあるので、高速鉄道の和階号を見ることが出来た。その奥には、昨年10月に工事が終わった高さ330メートル、74階建ての北京で一番高い国際貿易センターなどのビル群がある。

北京駅の文字は毛沢東の文字で、ほかには北京飯店、北京空港の文字も彼の手によるもの。


一番右側が北京飯店。
天壇公園
世界遺産。明と清の皇帝が五穀豊穣を願って祭祀を行った場所。総面積は273万平米あり、頤和園(いわえん) とほぼ同じ広さで、天安門広場の7倍、伊勢神宮の内宮と外宮を併せた面積よりも広い。
天・地・日・月をそれぞれ祀っており、天壇公園は南に位置して天を、北には地壇公園、東には日壇公園、西には月壇公園がある。
まず公園内に入ると、高齢者の多いことに驚かされる。75~80%の年金を受給できるので、定年後の人達が年間パスを購入して公園に集っているもので、それぞれ太極拳や将棋のようなものなどを楽しんでいる。


外国人観光客にも太極拳を教えていたり(左)、剣を持っている青いポロシャツの人が先生で高齢者に教えていたり(右)。



丸い将棋のような駒だったり、サイコロを使ったゲームなどをしていて、
ギャラリーも多い。

記念殿
大理石で出来た3層の基壇の上に立った3層の瑠璃瓦の建物は、高さが39メートル、直径30メートル。
もともと、永楽帝が南京から北京に遷都した時に建立されたもので、地獄界、人間界、天上界を現している。
現在のものは焼失した為に1889年に復元されたものだが、釘は一本も使われず木造のみ。
明と清の18人の皇帝は旧暦の1月15日と当時の日に感謝の意を表す祀りごとを行った。
祀りの前の3日間は、皇帝も酒・たばこ・穀物を食べることも禁じられ、女性に触ることも出来なかったのだそう。
古来の思想と政治が結びついた場所でもあった。

皇帝を現す龍の柱が並び、4本の大きな柱は四季を、12本の柱は12か月を、28本の柱は星座を現しており、立春などの24の季節をも表現している。

テーブルのお位牌は天の物として
愛新覚羅ファミリーの祖先のお位牌。

左に玉座がある。


二段目が鳳凰の望柱と出水



下が雲の望柱
出水はうっかり写真を撮り損ねてしまった。
出水はうっかり写真を撮り損ねてしまった。

皇乾殿
記念殿に祀られた神位の供養を行った場所。
紫薇軒

愛新覚羅家は清の皇帝として、267年間を統治しており、11代目の愛新覚羅溥儀氏が1911年に退位するまで続いた。愛新覚羅家は現在200名ほどいるが、そのほとんどは天津に住んでいる。
最後の皇帝である愛新覚羅溥儀氏には子供はない。溥儀氏の弟である溥傑氏は、1937年に明治天皇のいとこである嵯峨浩さんと結婚し、二人の娘のうちの慧生さんは無理心中をして伊豆で亡くなっているが、もう一人の娘である嫮生さんは現在も神戸におられるとのこと。溥傑氏は1994年に亡くなっている。
溥傑氏は、書家としても有名で、1960~70年代には彼の掛け軸は1000~2000円程度のものだったが、現在は1本300万円もするのだそう。書も大事だが、そこに押される落款(はんこ)も同じぐらい重要。また、文字よりも書家による絵画は漢字がわからない外国でも認められやすいので高価なのだとか。
現代の書家で有名なのは、愛新覚羅溥傑、毛沢東、郭沫若(かくまつじゃく)の3名とのこと。

その13代目にあたる71歳の愛新覚羅恒珏(あいしんかくらこうかく)氏とおっしゃる方が、天津に住んでおられるが、週末には北京の天壇公園の紫薇軒で書のデモンストレーションと共に書画の販売をしているとのこと。
写真撮影はダメだったが、購入した人とだけは写真が撮れると・・・
(この画像は外にあったパネルより)
文革時の4人組に痛めつけられない為に、愛新覚羅恒珏という名前を伏せて、送という自のシンニョウがない字が苗字、名前を維霖として過ごされていたのだそう。恒珏では名前の検索が出来ないが、変えた名前だとウェブで出て来るとのことだったが、あまり良くわからず、、、
この後、地元の市場を観に行き、昼食後は故宮へ。その様子は追って。
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