マックス・エルンストの展覧会に行った。

マックス・エルンスト(1891~1976)は、ドイツ人で、シュルレアリスムを代表する画家。(シュルレアリスムの絵画とは、作り手が意識的に何かを表現するのではなく、作り手のコントロールが効かない夢や無意識といった領域に属する何かが表現された作品、とのこと。。。)

彼はドイツのボン大学で哲学・心理学・美術史を学んだが、美大には行っていない。非常に多彩な技法を駆使して複雑な画面を構成している。
  • コラージュ 1912年にピカソやブラックなどが新聞紙などの断片を絵の表面に貼り付けた作品を制作した。
  • フロッタージュ 1925年にエルンストが板の上に紙を置き、木炭で木目を擦り出して作品とした。
  • グラッタージュ フロッタージュ効果を油彩画でも得ようと、エルンストが何層かに塗られたキャンバスを凹凸のある物の上に載せてパレットナイフなどでひっかくことで凹凸に応じて絵具が削り取られ下の層が現れる作品。
  • デカルコマニー 画面に絵具を塗った状態でその上に紙やガラスを押し付けてはがすことで偶然による形や色が現れる作品。オスカー・ドミンゲスという人が開発した技法。
  • オシレーション 1942年にエルンストが、空き缶の底に小さな穴をあけて紐で吊り、そこに塗料を入れて床に置いたキャンバスの上で振り回して絵具の軌跡を作品とした。  (画像はHP等より)
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聖対話 1921年(30歳)
コラージュ(糊による貼り付け)の手法を多用。エルンストにとって鳥が良くモチーフに使われる。
15歳ぐらいの時に飼っていたモモイロインコが死に、同時刻に妹が生まれたという体験がショックで意識の深い部分に残り、彼の作品には鳥が多く登場すると言われている。「a Gala」と小さく左下に書かれているのだが、ガラとは女性の名前。ポール・エリュアールの奥さんだったガラだが、エルンストはドイツに居た妻子を残してエリュアールとガラの三角関係になる。因みに、ガラはその後ダリの奥さんになる。

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偶像 1926年(35歳)
金網を載せて塗ったのではないかと言われている。
あくまでも私見だが、黒い線が、まるで上記の聖対話の女性のポーズのように見えたのだが。

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版画集「博物誌」
魅惑的な糸杉 1926年(35歳)
フロッタージュと言う技法。下に造形物を置いて紙の上からこすることにより、偶然性も生まれる。

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自由の称賛 1926年(35歳)
塗った油絵具を渇く前にひっかきとるグラッタージュの技法を全面に施した後に、上の白部分や鳥などを塗っている。

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籠の中の鳥 1926年(35歳)
鳥は、潜む魂そのもののイメージとして扱われている。魂は幽閉されておらず、鳥の身体は柵の手前にある。「外部であると同時に内部であり、自由であると同時に捕らわれている。この謎をと解いてくれるのは誰だろう?」とのこと。。。

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石化した森 1927年(36歳)
鳩の目のモチーフからリングのモチーフへと変わり、鳥籠の中に鳥がいるように、森の中に魂が宿る。
リングは「蝕」の天体で照らす光源であり、森を隠された場とする力の源であるとする。エルンストが子供の頃に原体験した森の「魅惑と恐怖」のイメージから来るのだそう。

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海と太陽 1933年頃(42歳)
この作品や、「小麦の芽吹く風景」や「風景 貝の花」などは、とてもカラフルで明るい斬新な色使いだった。

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少女が観た湖の夢 1940年(49歳)
デカルコマニー(転写)の技法。中央下の部分に牛、右はじに女性がいる。ギリシャ神話の「エウロペの略奪」に基づく。ヨーロッパの語源となったエウロペと牛となったゼウスを意味する。他にも仮面のようなものなど色々と見えて来る。牛の小さな目だけが白く塗られているのが印象的だった。

ヒトラーは画家になりたかったが、うまくいかず。彼が権力を握った際に、近代芸術を退廃芸術と呼び、あえて退廃芸術展まで開いてさらし者にした。マックス・エルンストや、ムンク、カンディンスキーなども標的となる。
当時、フランスに住んでいたドイツ人のエルンストは敵国人として収容所に入れられた。1940年に、ペギー・グッゲンハイムのおかげでアメリカに亡命。後に彼女と結構。
1943年にペギー・グッゲンハイムとは別れ、19歳年下の画家ドロテア・タニングと結婚し、アメリカのセドナに住む。
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ユークリッド 1945年(54歳)
オシレーション(振動)による技法。線が浮いて見える。当時、多くのシュルレアリストがアメリカに亡命してアメリカのジャクソン・ポロック等に影響を与えたと言われている。

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彫刻も製作していた。
王妃とチェスをする王 1944年(53歳)
マックス・エルンスト自身、チェス好きだった。後ろ手には、ずるをしていて、コマを隠し持っている。彫刻は絵よりも遊びの余地がある、彫刻を作るのは休暇を過ごすようなもので、再び絵に戻れると
考えていたのだそう。

1953年にアメリカからパリに戻り、ドロテア・タニングと幸せな日々を送っていた。

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嘘八百 1959年(68歳)
パレットナイフで描いた。ライオン、何匹もの魚、鳥などが描かれ、中央にはヤッコさんのような
人がのびのびと描かれている。オレンジを握り締める手なども。

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大アルベルトゥス 1957年(66歳)
もっともオカルト的とのこと。

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鳩のように 1955年(64歳)
良く見ると、鳩が2羽中央に描かれておりドロテア・タニングと幸せな日々を表現。

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ポーランドの騎手 1954年(63歳)
デカルコマニーの技法を使用。二羽の鳥がここにも。作品名が下の方に書かれていて、レンブラント・ファン・レイン「ポーランドの騎手」のオマージュ的な作品。マックス・エルンストは、1954年のヴェネツイア・ビエンナレーレの大賞を得た頃で、すでに巨匠となっていた。

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これが元になったレンブラントの「ポーランドの騎手」
NYのフリックコレクションでこれを観た時に聞いた話では・・・この作品はレンブラントにしてはまれな題材で、他の作家の作品ではないかなどとも言われていたが、現在は馬の足の部分などは弟子が描いたということで一応の決着をみているのだそう。そんな話まで知ってマックス・エルンスト氏は自分の作品を描いたのかどうなのか。。。(フリックコレクション の様子は こちら

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三本の糸杉 1951年(60歳)
とてもカラフル。

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最後の森 1960~70年
森の中に居るのか、外にいるのか。

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鳥たち 1975年(84歳)

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美しき女庭師の帰還 1967年(76歳) 
一番最初に挙げた画像である1921年に描かれた「聖対話」を描いた2年後の1923年(32歳)に、似たモチーフで「美しき女庭師」を油絵具で描き、デュッセルドルフの美術館が購入したが、ナチスの退廃芸術展に展示されて没収後に作品は行方不明となってしまった。その為、1967年に再度この作品を作成。

先日、愛知県美術館長さんと学芸員の方による 「はじめてアート講座2012 愛知県美術館なう」 という講座で、キルヒナーの作品の解説時に、この作品のこともおっしゃっていたので、より興味が湧いた。(この講座の様子は こちら

1976年85歳で亡くなる。

哲学なども学んだマックス・エルンストなだけに、さすがにとても難解だったが、解説などがあったのでわかりやすかった。