ヤズドからシーラーズに向かう途中、世界遺産となったアケメネス朝最初の都である パサルガダエ (パーサールガード) に行った。
 
アケメネス朝(紀元前550年~)を興したキュロス1世の孫で、2世のキュロス大王が紀元前546年頃から都とした場所で、キュロス2世の時に一番広い国土を有していた。当時は、スーサなど3か所を都とし、季節によって移動していた。
キュロス2世は名君で、当時から女性や動物の権利までもをうたっており、彼の名前は、イスラム教の経典であるコーランにも明記されている。
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見張り台
 
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石と石とのずれを止める為に穴の部分に鉄の突起物がつけてあったのだが、アレキサンダー大王が遠征して来た時にその鉄だけを取ってしまい、後世のアラブ時代にも取られ、また、地震も起きた為に痛んでいる。
 
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この場所には4つの宮殿があり、当時は川がいくつもあったが、現在は川はひとつのみで、ダムが建設されている。
一番近くても建設用の石材が採れる山は20キロ離れており、川を利用して石材が運ばれた。
エスタフルという近隣の町にこの地方の人達が住んでいて、この場所は宮殿だけで、一般人を通わせていた。
 
 
見晴らし台からの眺め
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キュロス2世の2番目の息子である
カンビセス2世のお墓
 
前面の壁部分とそれに至る階段ぐらいしか
残っていないが、入口は上の鉄枠の部分で
奥に2つの棺(夫人の棺)が置かれていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
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キュロス2世のプライベート宮殿
 
 
入口には、モスクの入り口のようなエイヴァンがあり、そこで来訪者は待っていた。
門の高さは16メートルあったのだそう。
台座は黒い石で、黄色の石と使い分けられ、カラフルだった。
 
 
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非常にわかりにくいが、その門の土台には
王の足、そして後ろから傘をさす人の足が
彫刻されている。
 
 
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宮殿には水が張り巡らされておりその溝が今も残っている。
 
 
 
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柱には、楔形文字で、バベリア語、エラム語、
古代ペルシャ語が刻まれている。
この柱は4本あったが、現在は1本のみ。
 
 
 
 
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謁見の間の宮殿
 
プライベート宮殿と異なり、出入口が多数。
柱や壁の遺構の上にはかぶせてある。
 
 
 
 
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柱の高さは13メートルで、石材の積み重ねる面に
凹凸をつけ、それを組み合わせて積んでいた。
 
 
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後世になってアラブ人が侵入して来た時に
彫ったものも残っている。
 
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羽根をつけた人物の彫刻は、
ギリシャやエジプトの影響を受けている。
また、右手の手のひらが上に向いているのは
ゾロアスター教のアフラマズダの影響。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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キュロス2世のお墓
 
中に棺が2つ(夫人用)ある。
キュロス2世が存命の時からお墓は造られており、実際には、彼はギリシャとの戦いで戦死しているので遺体はない。
 
 
 
 
キュロス1世は、孫(後のキュロス2世)が自分を殺すという夢を見たので、生まれたばかりの孫を殺すように命じたが、気の毒がった参謀が殺さずに逃がす。そしてキュロス2世が16歳の時にカミングアウトする。
キュロス2世の父親(=キュロス1世の息子)はパールス人、母親(=キュロス1世の義理の娘)はメディナ人であったが、メディナと戦争をしてキュロス1世は戦死する。
キュロス2世には実の息子が2人いたが、いずれも殺され、息子を名乗った偽の人が登場。しかし、キュロス2世の義理の息子であるダリウス(両親ともにパールス人)が偽物を見破り殺し、キュロス2世の後を継ぐ。
現在はフランスのルーブル美術館にあるここから出土した碑文に、名君であるキュロス2世の言葉である 「私を見て学べ」 というような内容のことが書かれており、パーレビ国王はその言葉を引用してスピーチしたが、彼の場合はその2年後に革命が起こり、アメリカへ(病気治療を理由に)。
 
 
パサルガダエを後にして、一路シーラーズへ向かう。
 
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道端では、トマトを売っていた。
この辺りの、トマト、キャベツ、キュウリ、
トウモロコシは美味しいことで有名。
イランで一番大きなトマトの会社も
このエリアにあるのだそう。
  
 
 
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遊牧民の人が羊を放牧させており、彼らのテントもところどころに見られた。
 
 
 
 
 
 
 
 
シーラーズ Shiraz に到着。珍しいシーフードレストランで夕食を。
シーラーズは、革命前まではワインの産地として有名だったのだそう。。。残念。。。
 
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メイン料理以外のサラダやデザートなどはビュッフェ形式になっていたが、ここのサラダは種類も豊富で美味しかった。
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ピクルス系なども豊富で、インドで食べるようなマンゴーチャッツネ風のものまであった。
 
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メインのエビフライ。
サラダなどが美味しくてご機嫌だったのだが
このエビフライはいただけない。。。
名古屋在住だから言うわけではない。
衣がこれでもかと分厚く、まるでアメリカンドッグの
ソーセージ部分が海老に変わったと言ったイメージだろうか。
思わず衣だけはずして食べたが、ドライバーさんも同様にしていたので、イラン人にも受けていなかったようだった。
やはり肉系の食文化だなと実感。
 
 
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デザートにはゼリーと、カスタード風。
 
 
 
 
 
 
翌日はシーラーズ郊外にある ペルセポリス などへ。
イランの中ではシーラーズの女性が一番開放的というだけあって、カラフルでオシャレ。思わず女性ウオッチングをすることに。その様子は追って。