ビエンチャンから空路シェンクワンに。
ビエンチャン 13:40発 QV401便 シェンクワン 14:10着 (実際に10分早く到着)
 
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シェンクワン近くになって飛行機から見た光景。これは? もしかして?
 
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シェンクワンの空港は思いっきりローカル。
標高が1100メートルなので、お昼間でもビエンチャンと違って涼しい。
夏の最高気温は35度、冬でも31度ぐらいまで上がるが、冬場は最低気温が10度を下回り、寒い時には家畜の牛や馬が死んでしまうこともあったのだとか。
 
飛行機から見えたものをガイドさんに教えてもらった。やはり。アメリカ軍の空爆の跡だった。
シェンクワンは、1960年代半ばから始まったラオス内戦の激戦地ともなった場所で、現政権の基礎を築いたネオ・ラーオ・ハク・サート(パテート・ラーオ)軍を攻撃する為にアメリカ軍が投下した爆弾の跡。
1964年~1973年の間に、平均すると8分ごとにアメリカ軍から爆撃を受けたほどで、その数は、アメリカ軍がドイツと日本に投下した爆弾の合計の数よりも多く、世界で一番被弾した場所なのだそう。住民は、ビエンチャン南部とベトナムとの2か所にある非難キャンプに避難民として逃げていたそうだが、実際にこの地で一体何人亡くなったかも不明のままなのだそう。
現在、シェンクワンは人口約35000人。
 
実際に道を走っていても、あちこちに、爆弾の跡であるいわゆるボムクレーターがぼこぼこと開いている。
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ジャール平原にある遺跡に行く。舗装道路ではないので、一台車が走ると砂煙が立つ。雨季になると泥だらけになるのだそう。 
 
ジャール平原 サイト3
 
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踏み鳴らした道の手前左右にある白いマークは、不発弾処理組織のMAGのマークが入っていて、それより内側を歩くようにと言う意味。
「空からの地雷」と言われるクラスター爆弾をアメリカが世界で初めてラオスで実践使用したもので、投下されると上空約2000メートル上空で炸裂し、中から300~350個の小さな爆弾が飛び散り広範囲に渡って被害を与える。投下された約3割の800~900万個が不発弾として残った。
 
MAGやUXOという組織が爆弾除去を行っていても、1995年から未だ現在わずか1%と言われ、1973年の停戦から現在までで約6000人が死亡。不発弾処理には後少なくとも1世紀は必要とも言われている。実際には、周りは田畑が広がっていて、のんびり水牛が草を食んでいたりするのだが、農作業をしている人などが年間約300人ずつ不発弾の為に死傷している。
因みに、2010年8月1日に、クラスター爆弾禁止条約が対人地雷禁止条約に次いで発効され、世界の120か国が署名しているが、署名していない国は、アメリカ、ロシア、中国、インド、イラン、イスラエル、韓国、北朝鮮など19カ国。。。
 
遺跡の周りは田畑になっているので牛達が、水田に稲穂がある時に入って来ないように柵が施され、遺跡を見学に行く為には柵を越えて行く。世界遺産には登録されていないが、現在ユネスコが管理しているので、個人が周りにホテルなどを建設することは出来ないのだそう。
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白い水牛発見。いわゆるアルビノ種。茶色い毛色の水牛よりも、黒い毛色の水牛の肉の方が美味しいのだそうだが、果たして白い水牛のお味は?
 
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草原に点在する無数の石壺の、「壺=ジャー」 からジャール平原と名付けられた。
 
BC500年頃~AD500年頃と言われている。シェンクワン内に約60か所以上あり、壺の総数は1000以上とのこと。同様の物は、このシェンクワンのみならず、インド、マレーシア、インドネシアでも発見されているのだそう。
 
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遠くの山から石が切り出され、ここまで運ばれて来たもので、1930年代に、フランス人考古学者によって調査されたのが最初。石壺の中にはほとんど何もなかったが、わずかな人骨が発見され、周りの地中からイヤリングやブレスレットなどが見つかったことから、石棺と考えられている。
砂岩の石棺が約85%だが、他の素材の石を使っている所もあり、サイト1の石壺はよりコンクリートっぽい素材となっている。
 
内部の壁面を見ると、鉄か何かで削ったと思われる跡が良くわかる。
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ここにも大きな爆弾の跡が。250キロ爆弾なのだそう。 
 
ジャール平原 サイト2
 
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ここの石壺は背が高いが、大きな木がその石壺を割ってしまっていたりも。
 
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石壺の周りが傷んでいるのはいずれも被弾した為。
  
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ここには、その石壺の蓋のような丸いものもあり、その上には頭部のない(削り取られた?)人間と
思われる形が浮き彫りになっている。この下からブレスレットなどが見つかった。石壺に乗っかっていたという蓋説や、このまま地面に置かれていてお墓の印とした説などさまざま。
  
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このエリアには、ラオスでは珍しく松が生えている。
 
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ジャール平原 サイト1
 
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最大規模のサイト。 
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最大の石壺。高さ3.25メートル、直径3メートル、重さ約6トン。
 
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石壺に開けられた穴は○だったり□だったり。 
 
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非常にわかりにくいが、外側に人間と思われる形の浮彫がされている物がひとつだけあり、これは日本の考古学者である新田栄治氏が発見した。
 
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大きな爆弾の穴が。
 
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石壺群のそばにある小さな山には入口となる穴が開けられている。
 
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ここで火葬を行ったと考えられ、煙を逃がす穴が3つあった。
 
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ホテルのあるポーンサワンの町に戻る途中、モン族の可愛い少女に遭遇。彼女は未だ幼いので違うと思うのだが、他にも男女数人が向かい合ってテニスボールなどを投げ合っている姿を見た。聞けば、それはモン族の婚活で、一昔前の 「フィーリングカップル ○対○」 と言った感じ。ちゃんと写真に撮っておけば良かった・・・
  
モン(Hmong)族は、中国南部の貴州省や雲南省、タイ、ラオス、ベトナムなどの山岳地帯に住むミャオ族の支系。世界中に4~500万人いるとされ、中国に300万人、ベトナムに107万人、続いてラオスに2005年現在約46万人がいる。雲南のモン族の様子は こちら
雲南でモン族を見ていたが、ここラオスでのモン族の受難を知ってビックリ。ラオスの内戦についても全く無知だったので今回は非常に勉強になった。(以下、地球の歩き方からの抜粋)
 
ラオスの内戦
1893~1945年続いたフランス植民地から、1945年に日本軍がインドシナを単独支配。しかし1946年から再びフランスによって再植民地化。この頃からフランスとの交渉によってラオスの完全独立を得ようとする右派と、徹底抗戦によって完全独立を勝ち取ろうとする左派のネオ・ラーオ・イサラ(パテート・ラーオ)に分裂し、内戦へ。
撤退したフランスに変わりラオス王国(右派)に軍事援助を開始したのがアメリカ。それに対し、左派のネオ・ラーオ・イサラに援助したのがベトナムやソ連。ネオ・ラーオ・イサラはネオ・ラーオ・ハク・サートに改称し、1975年12月に政権が移譲され王政が配しされて、ラオス人民民主共和国が出来た。

ラオスにおけるモン族
アジアの共産化、特に中国の南下を恐れたアメリカが、ベトミン(1941年にホーチミンが創設したベトナム独立同盟)と対峙していたフランス軍の戦費の8割を肩代わり。フランスは、ラオスとベトナムのモン族の村から、2万人をサイゴンのキャンプで軍事訓練を受けさせ、対ベトミン、対毛沢東軍の戦闘集団である 「モン・マキ Hmong Maquisard」 を結成。モン・マキは、フランスが戦費として充てていたラオスのジャール平原やベトナム北部のアヘンを本国に輸送する作戦やフランス軍兵士救出などを担う。一方、ベトミンも武器調達の資金源としてラオスのアヘンを狙ってモン族の村の共産化を強める。
1961年には、ラオスのロンチェンにアメリカが秘密基地を創設。J.F.ケネディと国家安全保障会議(NSC)とCIAが、モン特殊攻撃部隊(HSGU)を白人青年の身代わり部隊とする。ロンチェンには、エア・アメリカが就航し、民間航空会社を装いながら、アメリカ軍の移動やモン部隊への武器補給を行っていた。
アメリカによる「モン狩」によって、モン族の青年や少年は村の3分の1に減り、狩り出されたモン族はタイや沖縄に運ばれて訓練を受け、前線に運ばれた。
ペンタゴン(アメリカ国防省)曰く、モンではなくアメリカの若者が投入されていたら、アーリントン(ワシントンの戦没者墓地)の黒壁は5~6倍の長さになっていたと。
1975年のサイゴン陥落。その2週間後には、ラオスのロンチェンにはパテート・ラーオが総攻撃をかけて陥落させ、ラオス王国軍は敗北。ベトナムでは、北ベトナム軍の「テト攻勢」などが行われていた時期。
エア・アメリカの最後の引き揚げ機に乗れなかった数万人のモン族を北ベトナム軍とパテート・ラーオ軍が虐殺し、モン掃討作戦が始まる。
2005年になって、ラオス政府が30年間否定し続けてきたモン掃討作戦を認めたが、チェチェン紛争で使用されたロシア製特殊装甲車や武器、北朝鮮からの小火器がモン掃討作戦で使われていたとのこと。

ラオスにおける戦争は全て秘密裡であったが、その当事者はアメリカと、旧ソ連を後ろ盾にしたベトナムであり、ラオスの戦争を内戦ととらえるのは誤りとも言われる。
ラオスのこの件については、2008年に映像化されており、昨年10月12日には、NHKのBS世界のドキュメンタリーで放送された。 「隠された戦争~ラオスのCIA秘密基地」
The Most Secret Place On Earth (The CIAs Covert War In Laos)」  英語版だが、少しは雰囲気がわかるかと。
 
夕食を。
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お肉や魚の挽肉と香草を混ぜて炒めたラオス料理の定番ラープ。この時はダックを注文。
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ラープには、やはり糯米のカオ・ニャオ。地元の人達は右手で上手に糯米を一口大に取ってまるめ、それにラープなどおかずをまるめた糯米と合せて食べている。
 
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フィッシュサラダも、蒸してほぐした柔らかいお魚の身と野菜を混ぜたもので美味しい。
 
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豚のスープ 
 
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豚肉の米麺を。野菜が山盛り出てくるので、それをトッピングしていただく。
 
翌日はシェンクワン周辺を観光。その様子は追って。