シェンクワンのポーサワンの市場を後にし、郊外にある ムアンカム という所に向かった。

郊外にあるラオス版ドライブイン?で昼食を。
お料理が5品ならび、それを好きなように取る方式。お代わりも出来るのだそう。

大きなレンゲのようなものでよそうこともあって、あまり盛り付けが綺麗に出来なかったのだが、手前のお肉とタマネギの煮たものは、まるで牛丼味。青菜の炒め物、人参などの炒め物、豚肉の炒め物、豚の皮つき三枚肉の煮もの。
現地の人達はまずもっと多くのご飯をお皿中央に広げて盛り、その上におかずを乗せてスプーンで食べていた。

青菜のスープも。

テーブルの横がオープンキッチン状態。


ご飯はこうやって蒸される。
ラオス人版の健康ドリンクのM-150は、飲んでみた
ところオロナミンCのよう。
因みに手前のペットボトルのお茶は「OISHI 緑茶」だそうで、ラオス人はその「美味しい」の意味は知らないが、「OISHI」という単語は良く知っている。

外観はこんな感じで、地元の男性など多くのお客さんでにぎわっていた。

タム・ピウ洞窟
内戦当時、市民が避難していた洞窟。1968年11月24日に、アメリカ軍が洞窟にロケット弾を打ち込み、374名全員が亡くなった場所。
象徴的な記念碑。
展示室があるので、先にそちらを見学。


クラスター爆弾や色々なものがあり、不発弾で亡くなったり怪我をした人達のなまなましい画像も公開されている。
24時間止むことなく、ナパーム弾も使われていたが、ナパーム弾の充填物が人体に付くと、親油性の為に水をかけても消化できずに死に至る。
後で金属片を取ろうとした人ですら、わずか指先に付いただけでも亡くなったのだそう。

焦土と化した洞窟から発見された
仏像は、融けていたり壊れていた。

このタム・ピウ洞窟界隈には、あと2つの洞窟があり、一般市民が分かれて避難していた。タム・ピウ洞窟には、小学校と病院が設置され、向かって右側の洞窟では中学校が開かれていた。
洞窟では勿論電気はなく外には灯りが漏れないようにしていたが、アメリカ軍は照明弾を使い、タム・ピウ洞窟に砲撃。
1発目は洞窟入口右側に。2発目が命中。
3発目は入口の左側に当たって、当時よりも現在は入口が大きくなった。
一番規模が大きな洞窟は左のもの。

洞窟の入り口に至るまでの斜面には
「Grave Number 3 of People Died in the
Tame Piew」 などと書かれた青い墓標が
あちこちに。
洞窟で亡くなった方々を埋葬したのだが
砲撃で出来た穴に埋めるしかなかったのだそう。

タム・ピウ洞窟入口。
足元には黒い石が落ちているが、その場所の上の辺りに爆弾が命中し、天井部分の石が落ちたもの。
このタム・ピウ洞窟は川に一番近いことから、人々が一番住みやすく、入口入ってすぐ左側の壁に沿って皆のベッドが置かれ、さらに奥の暗い部分を病院としていた。
500メートルもの深さがあるが、奥は
酸素が薄くなるので、一番奥までは使用されていなかった。

内部から見た様子。
爆弾で入口が大きくなったが、以前は
もっと小さかったので、相当暗かった。
ここでは、その時に居た374名全員が亡くなったが、ほかの洞窟に避難していた人達が遺体などを確認するなどしたところ、12家族が絶えてしまったのだそう。

熱などで形がくずれた薬瓶など。
お線香のほか、多くのタバコがお供えされていた。
火をつけたタバコが最後まで燃え尽きると、霊がそのタバコを好んでくれたと言われている。
現在は禁止されているクラスター爆弾(アメリカはその禁止に今もって批准せず)や、ナパーム弾など大変な被害にあったことに驚かされたが、ガイドさん曰く、ベトナムのように枯葉剤はまかれなかったから良かったと。。。
ロンピウ村

ラオスでは49もの民族が暮らしていると言われているが、大きく分けると、ラオ族、モン族、カムー族の3種で、それぞれそこから細かく分かれた民族が49もいるのだそう。
ガイドブックなどでは、織物としてはラオ族系のタイダム族のバーンシェンキヤオ村が紹介されているが、現在はあまり機織りをしていないので、同じくタイダム族が暮らしているロンピウ村に寄ることに。


糸巻きで糸を紡ぎ、高床式の家の階下で機織りをし、外では洗濯をしているなど、とってものんびりした空気が流れていた。

観光客慣れしていない村の人達は変な外国人が来たと
最初、警戒していたが、この子供がとっても良い笑顔で
手を振ってくれたことから仲良くなることが出来た。

ぐるっと村の様子を撮ったビデオを見せると子供達は大喜びで、とっても良い笑顔を見せてくれた。



そして綺麗に整列してくれた。
中央の男の子をだっこしているお姉ちゃんは、顎の所でVサイン。

パーンシェンキヤオ村
同じくタイダム族の村。ロンピウ村よりもずっと大きい。
何処の村でもそうだが、電気は通っているので、高床式の家の横にはテレビを観る為の大きなパラボラ。
床下では機織りや農作業、暑い時にはハンモックで昼寝が出来るようになっていたりもする。

トラクターのエンジンを使って、お米を脱穀していて
その様子は村の人が身振り手振りで見せてくれた。

食べた後のとうもろこしの芯部分がうず高く家のそばに積まれている。燃料として使うのだそう。

びくを作っていたおじさん。
ガイドさんは別の村出身の為、おじさんとはびくの
作り方が違うそうで、ガイドさんが興味深く見ていた。
おじさん曰く、この村から日本にお嫁に行った人が
居るのだとか!!

村には農具や民族衣装などを
展示する小さな文化会館がある。

他の村で見かけた入浴?の光景。
この地方は標高1000メートル以上もあり、上記の画像でも
おわかりのように、皆しっかり着込んでいるぐらい寒い。
この日はあまり太陽が出ていなかったので、我々もヒートテックに
フリースを着ていたのだが、お湯などがないので、午後の一番
暖かい時間帯に水浴びをしているようだった。
この後は、モン族のバーンターチョーク村へ。その様子は追って。
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