今年は、宵々々山(その様子は こちら)、宵山(その様子は こちら)、そして 山鉾巡行 を観ることになり、いよいよ山鉾巡行。
長刀鉾
長刀鉾は33基ある鉾や山の中で、必ず一番先頭。
籤取らずの鉾や山は8基あるが、それ以外は、籤取り式で籤を引いて、巡行の順番を決める。籤取り式は室町時代である1500年から始まっていて、現在では京都市の市議会議場で行われる。長刀鉾が一番先頭を行くのは、その昔、四条通が現在の約3分の1の道幅で、四条通の一番東に位置する長刀鉾を追い抜いて他の鉾や山が進むことが出来なかったことから。

現在では唯一、生稚児(いきちご)が乗る鉾。神の遣い、代役として色々な行事に臨むのだが、古来は船鉾以外の鉾には全て生稚児が乗っていた。他は、昭和4年に放下鉾の稚児が人形になったのが最後。
生稚児は本来、稚児舞を行い非常に需要な存在なのだが、お稚児さん選びが大変だったことから人形へと移行していった。

お稚児さんの両脇に居る少年は禿(かむろ)と言われる役の少年達。今回のお稚児さんは、一昨年、お兄さんが稚児をした時に禿を務め、今年はお稚児さんとなった。左側の少年は同級生、右側は1年後輩の少年。
お稚児さんは、長刀鉾のある町内と一旦結納などを交わして養子縁組をし、13日に八坂神社で五位少将、十万石大名のお位を授けられ、17日にこの山鉾巡行を終えた後にそのお位返しを行う。

稚児舞が披露された。


太子山
聖徳太子が四天王寺建立に際し、自ら山中に入って良材を求めた聖徳太子を祀る。胴懸は金地孔雀唐草図のインド刺繍。


函谷鉾(かんこほこ)
中国戦国時代に、孟嘗君が鶏の声によって函谷関を脱出できたという故事に基づく。前懸は旧約聖書創世記の場面を描いた16世紀末の毛綴で重要文化財だったものを平成18年に復元新調。胴懸は17世紀李氏朝鮮絨毯、花文様インド絨毯、球取獅子図中国絨毯。この鉾は天明の大火(1788年)に焼失し、天保10年(1839年)に再興され、それ以降稚児人形を使っている。





鶏鉾(にわとりほこ)
天下太平で訴訟用の太鼓も必要なくなり苔が生えて鶏が宿ったという中国の故事に基づく。胴懸は草花文様インド絨毯で近年復元新調されたもの、見送は16世紀頃にベルギーで政策された毛綴で江戸時代
初期に輸入されたものと考えられ国の重要文化財。


油天神山

伯牙山(はくがやま)
琴の名人伯牙が、友人の死を聞いて、その琴の弦を断ったという故事に基づく。人形には墨書銘があり、天明以降の作と考えられている。画像ではわかりにくいが、蝶型の角金具が用いられ珍しい。

続きは その2 で。

長刀鉾は33基ある鉾や山の中で、必ず一番先頭。
籤取らずの鉾や山は8基あるが、それ以外は、籤取り式で籤を引いて、巡行の順番を決める。籤取り式は室町時代である1500年から始まっていて、現在では京都市の市議会議場で行われる。長刀鉾が一番先頭を行くのは、その昔、四条通が現在の約3分の1の道幅で、四条通の一番東に位置する長刀鉾を追い抜いて他の鉾や山が進むことが出来なかったことから。
長刀鉾は高さ24メートル、約11トン。最上部の長刀は、疫病邪悪を払うとされ、もともと真剣が使われていた。
2010年までは1981年製の錫箔のものだったが、30社や町内の寄付により、一昨年プラチナ箔の長刀に新調された。長刀の最大幅は10センチ、長さは1.2メートル。
前懸や胴懸に、ペルシャ花文様絨毯や中国やインドや中東の16~18世紀の絨毯が使われていたが、現在は復元品。2010年までは1981年製の錫箔のものだったが、30社や町内の寄付により、一昨年プラチナ箔の長刀に新調された。長刀の最大幅は10センチ、長さは1.2メートル。

現在では唯一、生稚児(いきちご)が乗る鉾。神の遣い、代役として色々な行事に臨むのだが、古来は船鉾以外の鉾には全て生稚児が乗っていた。他は、昭和4年に放下鉾の稚児が人形になったのが最後。
生稚児は本来、稚児舞を行い非常に需要な存在なのだが、お稚児さん選びが大変だったことから人形へと移行していった。

お稚児さんの両脇に居る少年は禿(かむろ)と言われる役の少年達。今回のお稚児さんは、一昨年、お兄さんが稚児をした時に禿を務め、今年はお稚児さんとなった。左側の少年は同級生、右側は1年後輩の少年。
お稚児さんは、長刀鉾のある町内と一旦結納などを交わして養子縁組をし、13日に八坂神社で五位少将、十万石大名のお位を授けられ、17日にこの山鉾巡行を終えた後にそのお位返しを行う。
稚児のお世話をされる稚児掛の方が髪飾りを直す時には、さっと周りの男性が扇子で隠しておられる。

稚児舞が披露された。

郭巨山(かっきょやま)
中国の史話、郭巨が黄金の釜を堀りあて母親に孝養を尽くしたという故事にちなんでおり、「釜堀り山」とも言われる。山の人形のご神体の郭巨と童子は寛政元年(1789年)作。胴懸は、上村松篁原画によるもの。屋根覆いがかけてある。
中国の史話、郭巨が黄金の釜を堀りあて母親に孝養を尽くしたという故事にちなんでおり、「釜堀り山」とも言われる。山の人形のご神体の郭巨と童子は寛政元年(1789年)作。胴懸は、上村松篁原画によるもの。屋根覆いがかけてある。

太子山
聖徳太子が四天王寺建立に際し、自ら山中に入って良材を求めた聖徳太子を祀る。胴懸は金地孔雀唐草図のインド刺繍。

保昌山(ほうしょうやま)
丹後守平井保昌と和泉式部の恋物語に基づき、保昌が式部の為に紅梅を手折ってくる姿を表現。ご神体の人形の頭部は明応9年(1500年)、胴体部分は寛政(1789~1800年)頃の作とされている。胴懸は円山応挙(1733~95年)の下絵で近年に復元新調し、下絵そのものは屏風仕立てに
して保存されている。見送(後ろ側のもの)は、福禄寿、弁財天に唐子を配したもので寛政10年(1798年)の作。

函谷鉾(かんこほこ)
中国戦国時代に、孟嘗君が鶏の声によって函谷関を脱出できたという故事に基づく。前懸は旧約聖書創世記の場面を描いた16世紀末の毛綴で重要文化財だったものを平成18年に復元新調。胴懸は17世紀李氏朝鮮絨毯、花文様インド絨毯、球取獅子図中国絨毯。この鉾は天明の大火(1788年)に焼失し、天保10年(1839年)に再興され、それ以降稚児人形を使っている。

山伏山
ご神体の山伏は、八坂ノ塔が傾いた時、法力によってそれを直したという姿を表している。巡行の数日前から聖護院の山伏たちの巡拝があり明治初年の神仏分離以前の姿を見ることが出来る山。

綾傘鉾(あやがさほこ)
大きな傘と棒ふりばやしの行列。棒ふりばやしは赤熊をかぶり、鉦、太鼓、笛に合わせて踊る。

蟷螂山(とうろうやま)
足利義詮に挑んで戦士した四条隆資(しじょうたかすけ)が、中国の故事の「蟷螂の斧」のような戦いぶりだったということから永和2年(1376年)に、四条家の御所車に蟷螂を乗せて巡行したのが始まり。前懸や胴懸や見送(画像にはない)は、友禅。御所車の屋根の上のカマキリと御所車の車輪が動くなど山鉾では唯一のからくりが施されており、カマキリの顔や手、羽根が動くたびに観客から歓声があがっていた。

鶏鉾(にわとりほこ)
天下太平で訴訟用の太鼓も必要なくなり苔が生えて鶏が宿ったという中国の故事に基づく。胴懸は草花文様インド絨毯で近年復元新調されたもの、見送は16世紀頃にベルギーで政策された毛綴で江戸時代
初期に輸入されたものと考えられ国の重要文化財。


油天神山
朱塗りの社殿に天神像を安置している。見送は、毛綴の宮廷宴遊図だったが、平成2年に
梅原隆三郎氏原画の「朝陽図」綴織になった。胴懸は前田青邨原画の紅白梅。
梅原隆三郎氏原画の「朝陽図」綴織になった。胴懸は前田青邨原画の紅白梅。

伯牙山(はくがやま)
琴の名人伯牙が、友人の死を聞いて、その琴の弦を断ったという故事に基づく。人形には墨書銘があり、天明以降の作と考えられている。画像ではわかりにくいが、蝶型の角金具が用いられ珍しい。

占出山(うらでやま)
神功皇后が、鮎を釣って先勝の兆とした故事。前懸と胴掛は、日本三景を描いており、天保2年(1831年)の作。
続きは その2 で。
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