祇園祭の山鉾巡行 その1 からの続き。

月鉾
破風の彫刻は左甚五郎作と伝えられ、四本柱や破風飾の金具などはとても華麗で山鉾の中では最高のもの。胴懸はインドやトルコの絨毯。一番重く、乗っている人達も入れた総重量は約11.88トン。


孟宗山(もうそうやま)
「筍山」とも言い、病身の母を養う孟宗が、母の為に雪の中で筍を掘り当てたという中国の故事に基づく。胴懸は、平山郁夫氏の「砂漠らくだ行」の日と月。人形のご神体の頭の上には雪が被っている様子を示しているのだが、胴懸が砂漠とは???








白楽天山



月鉾
破風の彫刻は左甚五郎作と伝えられ、四本柱や破風飾の金具などはとても華麗で山鉾の中では最高のもの。胴懸はインドやトルコの絨毯。一番重く、乗っている人達も入れた総重量は約11.88トン。


孟宗山(もうそうやま)
「筍山」とも言い、病身の母を養う孟宗が、母の為に雪の中で筍を掘り当てたという中国の故事に基づく。胴懸は、平山郁夫氏の「砂漠らくだ行」の日と月。人形のご神体の頭の上には雪が被っている様子を示しているのだが、胴懸が砂漠とは???

四条傘鉾
傘と棒ふりばやしが巡行する古い鉾の形態で、応仁の乱以前に起源があるが、明治4年以降途絶えていたものを、昭和63年に町内で復活させた。

踊りは、某ふりなど子供8人が演じる。


霰天神山
永生年間(1504~1520年)に、京都で大火があった時に霰が降って火が消え、天神様が降って来たとされ、それを祀ったのが起こり。前懸は16世紀のベルギーで製作された毛綴だったが痛んだ為に3年前に復元新調、胴懸は上村松篁・淳之親子の原画花鳥綴織。

菊水鉾
町内にあった菊水井戸に因んで名付けられた。元治元年(1864年)の兵火で焼失したが、昭和28年に完工。昭和の鉾となった。前懸は昨年新調された。
町内にあった菊水井戸に因んで名付けられた。元治元年(1864年)の兵火で焼失したが、昭和28年に完工。昭和の鉾となった。前懸は昨年新調された。


芦刈山
故あって妻と離れて難波の浦で芦を刈る老翁がやがて妻と再会を果たす夫婦和合の姿を表す。ご神体の人形の着物は、天正17年(1589年)銘を持つ重要文化財指定の小袖で、山鉾最古の衣装。前懸や胴懸は一昨年とは違っていた。
故あって妻と離れて難波の浦で芦を刈る老翁がやがて妻と再会を果たす夫婦和合の姿を表す。ご神体の人形の着物は、天正17年(1589年)銘を持つ重要文化財指定の小袖で、山鉾最古の衣装。前懸や胴懸は一昨年とは違っていた。

白楽天山
唐の詩人、白楽天が道林禅師に仏法の大意を問う場面。前懸は文化5年に新調されたものと、万延元年(1860年)に蟷螂山から買い受けたもの。胴懸は、17世紀の毛綴で、昭和53年にフランスから購入。


木賊山(とくさやま)
わが子を人にさらわれて一人で木賊を刈る翁のご神体は、元禄5年(1692年)6月と書かれている。

放下鉾(ほうかほこ)
放下僧の像を祀ることから鉾の名が付いた。かつては長刀鉾と同様に、生稚児(いきちご)を乗せていたが、昭和4年以降、稚児人形に変えられ、稚児舞が出来るよう作られている。

岩戸山
全部で33もの鉾や山があるので、続きは その3 で。
天岩戸(あまのいわと)を開いて天照大神が現れた日本神話を題材とし、山と言いつつも、室町時代の洛中洛外図屏風に岩戸山はすでに車輪が描かれていて鉾と同じ曳山だった。鉾柱の代わりに、屋根には真松が立っている。
全部で33もの鉾や山があるので、続きは その3 で。
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