松坂屋の前身でもある「株式会社いとう呉服店」の初代社長・伊藤次郎左衞門祐民の別荘が一般公開されたので、行ってみた。

聴松閣
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覚王山の日泰寺に隣接する約1万坪(35000平方メートル)の森を拓いて築かれた。大正7年(1918年)に最初の建物が移築され、完成した昭和12~14年頃には移築・新築された30数棟があったという。大正から昭和初期にかけては皇族や華族、政治家や著名人の他に外国人も多数訪れ、国内からの寄宿生に加えて留学生の受け入れも行っていた。
昭和20年(1945年)に空襲を受けて建造物の多くが焼失。戦中は日本軍に、戦後は米軍に接収され、その後は松坂屋独身寮として使用された。敷地の多くが開発されて庭園も南北に分断されたが、数棟の建物と庭園が残されている。(wikipedia より抜粋)

南庭園
まずは、2700平米ある南庭園に位置する聴松閣の建物内部へ。竹中工務店の小林三造による建築。
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旧食堂で、現在の喫茶室には、伊藤家の「いとう」と言う文字が。

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食堂の床は、手斧(ちょうな)で木材の表面に化粧を施す「名栗」この床材は堅い栗の樹とのこと。

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階段の手すり部分には、17センチ角の栗の無垢材に透かし彫りが施されている。

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旧書斎
天井は船底天井、棚と棚の間は網代天井。床は当時としては珍しいプラスチックタイルの市松張り。

旧応接室 
イギリスの山荘風に装飾されている。マントルピースや壁紙は復元されたものだが、置かれている椅子やテーブルには、階段の手すりと同じ透かし彫りが!
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旧寝室
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天井や壁の装飾や、床は中国様式のデザイン。川上貞奴が住んでいた「文化のみち二葉館」は、
この部屋の床の寄木貼りを参考に、復元を行った部屋もあるのだそう。
(文化のみち二葉館の様子は こちら

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2階から3階は吹き抜けとなっていて、折り畳み戸を開けると天窓から光がさしこむようになっている。天窓上部には、棟札がかけられているのだそう。(下からでは見えないが)

伊藤次郎左衞門祐民は、明治43年(1910年)に、いとう呉服店として栄町に百貨店を開店。店に偶然やって来たビルマ人僧侶との出会いがきっかけとなり、シャム、ビルマ、インドの4か月に及ぶ仏跡巡拝の旅に出る。
もともと、この地下広間は当初の設計図にはなく、彼の指示によって変更されたと考えられているのだそう。

地下の旧舞踏場
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柱の根元には、インドのアグラ宮殿と同じ植物模様の細工が施されている。
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南面のガラスは、ヒマラヤの山々が描かれたエッチングガラス。
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インドのアジャンタ石窟にある釈迦誕生の物語を描いた壁画の写しと言われている。伊藤次郎左衞門祐民のインド旅行に同行したハリハランによって描かれた壁画。

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地下トンネル
今は現存しない有芳軒まで伸びており、途中から東へ分岐した先の出入口には、五色玉石貼りの欄干と
「聴泉窟」と彫られた石盤で飾られていた。防空壕としても使われていたが、本来の建設目的は不明のままなのだとか。

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日泰寺の五重塔がすぐそばに見える。

北庭園

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京都の修学院離宮の影響を受けたと考えられる池泉回遊式庭園。6500平米。

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白雲橋
修学院離宮の千歳橋を模したと言われる廊橋。千歳橋の屋根はこけら葺きだが、この屋根は緑釉瓦で、一部が銅版葺き。北側の天井に龍の絵があったが、ガラスがはめられているので、上手く写真には撮れず・・・

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三賞亭
茶屋町(現在の中区丸の内2丁目)の伊藤次郎左衛門家本宅より大正7年に移築した揚輝荘最初の建物。煎茶の茶室なので、炉は切っていないが、丸窓竹のなげしななど、東洋風デザイン。

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祠も祀ってある。

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伴華楼(ばんがろう)(Bungalowをもじっている)
昭和4年に、鈴木禎次の設計で、尾張徳川家ゆかりの座敷に洋室を加えて建築した。

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この辺りは古来から月見の名所だったこともあり月でウサギがお餅をつくレリーフも?!
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松坂屋は、宝永年間(1704~1711年)に、伊勢白子出身の太田利兵衛が創業し、江戸では越後屋、大丸屋などに次ぐ大店だったが、明和5年(1768年)、江戸は上野広小路の松坂屋が売りに出ていると情報を得て、11代祐恵は、総額4516両で奉公人ともども居ぬきで買い取る。
称号を「松坂屋」から「「いとう松坂屋」に、商標を「伊藤丸」に変更したが、松坂屋利兵衛の名義は継承したのだとか。

色々な和洋折衷であるなど、当時の財力のある人の好みも見てとれて面白かった。