城崎温泉に行く前に、出石に立ち寄った。


かつての出石城の城下町は、但馬の小京都とも呼ばれている。
明治9年の大火で町の80%以上の建造物を焼失したが、町割は文化7年(1810年)の絵図の状態がほぼ完全に残り、そこに建設された明治時代の寺院や町家や、焼失を免れた武家屋敷や社寺が今も現存していることから、国の伝統的建造物群保存地区として選定されている。

辰鼓楼 日本最古の時計塔
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出石城址 今は、楼閣のひとつしか残っていない。
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城址からの眺め
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出石家老屋敷
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江戸後期の上級武士の家で、外観は平屋建に見えるが実際は二階建て。
江戸時代における三大お家騒動のひとつである出石騒動の中心人物である千石左京(式部家)の屋敷跡とのこと。この日は、出石で「着物祭」が行われていたので、あちこちで着物姿の人達を見ることが出来た。
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江戸時代の参勤交代での大名行列の時に行われた槍振りが今も伝承されているそうで、奴の道具などが展示されていた。
奴のお祭りと言えば、刈谷で奴のねりのお祭りを観たのを思い出した。(その様子は こちら
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隠し二階
敵からの襲撃を防いだり、秘密の会議に利用されたもので、二階にあがる階段を上に引き上げて天井板で隠せば、階下から見ると二階の存在がないような仕組みとなっている。

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押入れの中
天井棚は強く造られ、足場として屋根づたいに出入りが出来て外へ通じるようになっており、いざという時の逃げ道や隠密の出入口となっていたのだそう。

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座敷に座ってみると、会議中でも、この丸窓から、階下からの人の出入りが見通せるようになっている。

永楽舘
近畿最古の芝居小屋。明治34年に開館、昭和39年に閉館したが、復元されて平成20年から開館されている。係の方が、解説して下さった。
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歌舞伎や新派劇、寄席などが上演されていた。

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平桟敷、東西の桟敷、二階の升席、併せて収容人数368名

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舞台に向かって右側(上手)にあり、上が太夫座で義太夫の演奏者が、下は囃子場で三味線や太鼓などの出囃子を演奏する部屋。横の壁には、当時の人達の落書き、つまり100年前の落書きが今も残っている。

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舞台の奥の2階は楽屋となっていて、音をたてることが出来ない。
天井部は所謂バトンのしくみが竹で組まれている。根曲がり竹が使われていて、はじは曲がったまま。
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湯殿

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セリや廻り舞台のしくみが見られる奈落
廻り舞台を支える木材は、出石城の廃材を利用していたので、ところどころ彫り込まれていたりカットされていたり。廻り舞台は、人力で廻されていた。

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直径6.6メートルの廻り舞台

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鳥屋(とや)奥には花道の下の通路がある。役者さんがここを利用して花道奥の幕引きから舞台を往復する。

「檜舞台」と言うが、本当はこの檜板を舞台に敷いて音を出したもので、1枚の檜板が100万円するのだとか。ここには10枚あるので、これだけで1000万円?!
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当時の看板のうち、半分は今も営業されている。出石と言えば蕎麦かと思うが、蕎麦屋の看板はない。当時は未だお蕎麦屋さんは2軒しかなく、昭和43年以降に出石蕎麦が有名となり現在の44軒に至るのだそう。

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映画も上映されていた。当時のポスター

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勘亭流と呼ばれる丸みを帯びた字で書かれた看板。看板の上の部分はお客さんが入るようにと「入」の文字を象っている。

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大ヒットドラマ 「半沢直樹」 の国税庁のおねえキャラですっかり有名になった片岡愛之助さんの写真が置かれていた。ここで例年公演をされているが、今年はドラマ効果でチケットは完売となったのだとか。
観客席にもかかる勢いで水を撒き、前方の席の人はビニールシートをかぶっての観劇となる。そこから生まれた「かぶりつき」の席。お相撲の砂被りは文字通り砂をかぶるとわかるのだが、かぶりつきの席というのは、てっきり役者さんにかぶりつけるぐらいに間近で観られるということかと思っていたので、なるほど~と。

町は落ち着いた雰囲気となっている。
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出石蕎麦と言えば、小さなお皿に盛られたお蕎麦を何皿も食べるもの。各お蕎麦屋さんのお皿を飾ってある所もあった。勿論、有名な出石蕎麦も食べた。その様子は追って。

この後、コウノトリの郷公園へ。