友人夫妻の関西案内4日目。この日は町歩きを。

花見小路 から 祇園界隈 を散策。

芸妓さんや舞子さんがおられるお茶屋さんが立ち並ぶ。

この白川の疎水の両岸には、お茶屋さんが建ち並んでいたが、第二次世界大戦下の昭和20年(1945年)に、空爆の疎開対策として白川北側の家々は強制撤去させられたのだとか。

老舗の「一力」さん

八坂神社
今年の夏は、祇園祭で、ここの拝殿でお参りさせてもらったのが懐かしい。

八坂の塔

清水寺



あえて夕方に行ったのだが、とにかく修学旅行生や、和服姿の外国人観光客など人・人・人・・・
ただ、清水の舞台を横から見る一番の絶景である奥ノ院を今年の3月から改修工事していて通路が狭くなっている為、修学旅行生などは来ないので、以前に来た時よりもずっと舞台の写真が撮りやすくなっていた。
音羽の滝
清水寺の開創の起源で、寺名の由来となったのがこの瀧。
流れ出る清水は古来「黄金水」「延命水」と呼ばれ、
清めの水として尊ばれている。
弥栄会館ギオンコーナー では、日本の文化をダイジェストで紹介している。
外国人の団体さんが大半で、後は、地方から来られたっぽい数名の日本人のオプショナルツアー参加者?と思える人達や、個人の外国人観光客。
写真のフラッシュ撮影も、録画もOKという寛容ぶり。ただ立ち上がらないでくださいと言われたので、まさかー!と友人達と笑っていたのだが、なるほど、立ち上がったり席を移動をして写真を撮る外国人観光客多数だった。

箏
1300年前、中国から渡来したもの。宮廷雅楽に用いられていた。


驚いたことに、茶道のお点前中に箏の演奏が始まり、そのまた途中で華道も始まるので、あっちを観たりこっちを観たりと忙しい。
雅楽
聖徳太子の時代を中心として、応神天皇から聖武天皇に至る500年ほどの間に楽器や楽曲が伝来。
朝鮮、インド、中国から伝えられ、平安時代の初めの仁明天皇が中心となって外来楽の日本化が進んだ。歌謡を主とする郢曲と、楽器演奏のみの雅楽とがあり、雅楽には舞を伴う舞楽が多数あるのだそう。
ここでは舞楽を。


狂言
能楽の合間にその時代の日常の言葉で演じられる一種の喜劇。
15世紀から始まったが、16世紀以後、将軍の庇護のもと、民間に広がり、武士の間では彼らの教養のひとつとして考えられていた。
現在、大蔵流、和泉流の2流があり、大蔵流の「棒縛り」が演じられた。
古い言葉使いだが、日本人の私にはストーリーがちゃんとわかり、面白かったが、外国人にはちょっと長かったかも。
京舞
舞踊は踊りと舞の2つに大別される。踊りは江戸時代に発生した歌舞伎の系統をひくもので、身体の動きで感情を強く現すのに対し、舞は京都を中心とした関西地方に発生したもので、能楽の系統をひくため省略された動きの中で表現し、座敷舞と言われる。
京舞はその座敷舞で、江戸中期、文化文政の頃に京都でおこり、発展してきた。
「都をどり」も京舞を基調としたもので、祇園の芸妓や舞妓によって演じられている。
この日は、豆まるさんと豆六さん。
文楽
人形を操って庶民の娯楽としたのは平安時代が始まり。アジア大陸から渡って来た漂泊の民が、人形を舞わし、種々の芸を見せて女は歌を謡った。室町時代に人形を舞わす技も巧みになっていった。一方、浄瑠璃は、16世紀前半に始まった。16世紀中ごろから、琉球から渡来した三味線が伴奏音楽として変わり、17世紀初頭に人形芝居小屋を作って興業するようになる。18世紀初頭の元禄年間には、大阪で義太夫節として集大成され、享保17年(1732年)に初めて一体の人形を3人であやつる方法が考案され、江戸時代には全盛を極めた。
この日は、「八百屋お七」の火の見櫓の段が披露された。

全部で1時間弱
詰め込んだものだが、やはり京舞が一番外国人には人気だったもよう。
会場では、祇園甲部、宮川町、先斗町、上七軒、祇園東のそれぞれ歌舞会についてや、鬘や髪飾りなどが展示されていた。

これで友人達の関西4泊5日の京都・奈良・大阪旅行は終了。
翌日彼らは高山や白川郷に向かい、私は一旦名古屋に帰って、後日、彼らが名古屋から東京に向かう新幹線に再び合流して東京観光へ。
その様子は追って。

錦市場
京都の台所を見学。
あちこちで試食させて下さるので、友人夫婦もチャレンジ。
驚いたことに、日本のお漬物がいたく気に入った様子。
糠漬けのしかも古漬け、奈良漬け、はたまた京都名物の
すぐきがとても美味しいと。
持って帰りたいと言っていたのだが、未だこれから
旅行は高山、東京と続くので、泣く泣くあきらめていた。
京都の台所を見学。
あちこちで試食させて下さるので、友人夫婦もチャレンジ。
驚いたことに、日本のお漬物がいたく気に入った様子。
糠漬けのしかも古漬け、奈良漬け、はたまた京都名物の
すぐきがとても美味しいと。
持って帰りたいと言っていたのだが、未だこれから
旅行は高山、東京と続くので、泣く泣くあきらめていた。
花見小路 から 祇園界隈 を散策。

芸妓さんや舞子さんがおられるお茶屋さんが立ち並ぶ。

この白川の疎水の両岸には、お茶屋さんが建ち並んでいたが、第二次世界大戦下の昭和20年(1945年)に、空爆の疎開対策として白川北側の家々は強制撤去させられたのだとか。

老舗の「一力」さん

八坂神社
今年の夏は、祇園祭で、ここの拝殿でお参りさせてもらったのが懐かしい。

八坂の塔

二年坂、三年坂、茶碗坂などを散策。
清水寺



あえて夕方に行ったのだが、とにかく修学旅行生や、和服姿の外国人観光客など人・人・人・・・
ただ、清水の舞台を横から見る一番の絶景である奥ノ院を今年の3月から改修工事していて通路が狭くなっている為、修学旅行生などは来ないので、以前に来た時よりもずっと舞台の写真が撮りやすくなっていた。
音羽の滝
清水寺の開創の起源で、寺名の由来となったのがこの瀧。
流れ出る清水は古来「黄金水」「延命水」と呼ばれ、
清めの水として尊ばれている。
弥栄会館ギオンコーナー では、日本の文化をダイジェストで紹介している。
外国人の団体さんが大半で、後は、地方から来られたっぽい数名の日本人のオプショナルツアー参加者?と思える人達や、個人の外国人観光客。
写真のフラッシュ撮影も、録画もOKという寛容ぶり。ただ立ち上がらないでくださいと言われたので、まさかー!と友人達と笑っていたのだが、なるほど、立ち上がったり席を移動をして写真を撮る外国人観光客多数だった。

茶道
中国において8世紀にはじまり、日本には平安時代から鎌倉時代に
かけて禅僧によってもたらされたもの。最初は禅寺や貴族社会で
もっぱら健康の為に飲まれていたのだとか。
まず最初は立礼でのお点前を披露され、やりたいと挙手した
外国人ふたりがそのお客役に。
中国において8世紀にはじまり、日本には平安時代から鎌倉時代に
かけて禅僧によってもたらされたもの。最初は禅寺や貴族社会で
もっぱら健康の為に飲まれていたのだとか。
まず最初は立礼でのお点前を披露され、やりたいと挙手した
外国人ふたりがそのお客役に。
箏
1300年前、中国から渡来したもの。宮廷雅楽に用いられていた。


華道
約1500年前から、仏教伝来の後、仏前に花を供えたことから
始まった。桃山時代に入って茶の湯が普及するにつれ、
茶室にふさわしい花を飾るように変化。
始まった。桃山時代に入って茶の湯が普及するにつれ、
茶室にふさわしい花を飾るように変化。
驚いたことに、茶道のお点前中に箏の演奏が始まり、そのまた途中で華道も始まるので、あっちを観たりこっちを観たりと忙しい。

聖徳太子の時代を中心として、応神天皇から聖武天皇に至る500年ほどの間に楽器や楽曲が伝来。
朝鮮、インド、中国から伝えられ、平安時代の初めの仁明天皇が中心となって外来楽の日本化が進んだ。歌謡を主とする郢曲と、楽器演奏のみの雅楽とがあり、雅楽には舞を伴う舞楽が多数あるのだそう。
ここでは舞楽を。


狂言
能楽の合間にその時代の日常の言葉で演じられる一種の喜劇。
15世紀から始まったが、16世紀以後、将軍の庇護のもと、民間に広がり、武士の間では彼らの教養のひとつとして考えられていた。
現在、大蔵流、和泉流の2流があり、大蔵流の「棒縛り」が演じられた。
古い言葉使いだが、日本人の私にはストーリーがちゃんとわかり、面白かったが、外国人にはちょっと長かったかも。

舞踊は踊りと舞の2つに大別される。踊りは江戸時代に発生した歌舞伎の系統をひくもので、身体の動きで感情を強く現すのに対し、舞は京都を中心とした関西地方に発生したもので、能楽の系統をひくため省略された動きの中で表現し、座敷舞と言われる。
京舞はその座敷舞で、江戸中期、文化文政の頃に京都でおこり、発展してきた。
「都をどり」も京舞を基調としたもので、祇園の芸妓や舞妓によって演じられている。
この日は、豆まるさんと豆六さん。

人形を操って庶民の娯楽としたのは平安時代が始まり。アジア大陸から渡って来た漂泊の民が、人形を舞わし、種々の芸を見せて女は歌を謡った。室町時代に人形を舞わす技も巧みになっていった。一方、浄瑠璃は、16世紀前半に始まった。16世紀中ごろから、琉球から渡来した三味線が伴奏音楽として変わり、17世紀初頭に人形芝居小屋を作って興業するようになる。18世紀初頭の元禄年間には、大阪で義太夫節として集大成され、享保17年(1732年)に初めて一体の人形を3人であやつる方法が考案され、江戸時代には全盛を極めた。
この日は、「八百屋お七」の火の見櫓の段が披露された。

全部で1時間弱
詰め込んだものだが、やはり京舞が一番外国人には人気だったもよう。
会場では、祇園甲部、宮川町、先斗町、上七軒、祇園東のそれぞれ歌舞会についてや、鬘や髪飾りなどが展示されていた。

これで友人達の関西4泊5日の京都・奈良・大阪旅行は終了。
翌日彼らは高山や白川郷に向かい、私は一旦名古屋に帰って、後日、彼らが名古屋から東京に向かう新幹線に再び合流して東京観光へ。
その様子は追って。
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