
すっかりふらふら散策が気に入った?クセになった?ので、
今度は品川界隈を散策することに。
品川宿は、東海道五十三次の宿場の第一宿。
中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿、日光街道・奥州街道の千住宿と並んで江戸四宿と呼ばれた。
当時は、宿内の家屋は約1600軒、人口は7000人もの規模だった。
今の東海道の品川宿はすっかり
建物などが変わってはいるものの
あちこちに石碑などが残っている。
建物などが変わってはいるものの
あちこちに石碑などが残っている。
2週間後が品川神社の例大祭とあって、お神輿などが商店街に展示されていた。


天下一嘗(ひとなめ)の面
通称、赤面様。慶長5年(1600年)家康が関ヶ原の戦いに出陣する際に、品川神社に参拝して戦勝を祈願。合戦後に勝利のお礼にと御神面を奉納。この御神面は、平安時代の作で、国常立尊面(くにのとこたちのみことめん)と言う。江戸に疫病が流行った年に、御神面を付けて町々を廻れば人々が救われるとのことで、以来、祭礼の神輿に付けて渡御しているのだそう。

一心寺
安政2年(1854年)に、
井伊直弼が開山した。
安政2年(1854年)に、
井伊直弼が開山した。

品川橋
江戸時代には、ここから海が非常に近く、漁業も盛んで、神社仏閣も多かった。
この品川橋の下を流れる目黒川を挟んで、北品川宿と南品川宿とに分かれていたので、境橋とも呼ばれた。
建設当時は木の橋だったが、現在は鋼橋。
因みに、この品川橋を目黒川沿いに海の方に行くと京浜急行の新馬場駅。
品川宿には、幕府公用の旅行者にして、1日当たり100頭の馬と100人の人足を提供するように割り当てられており、その馬と飼育する馬小屋があった為に名づけられた地名。

利田神社
旧目黒川の河口の洲に弁天堂が祀られていた。
洲崎弁天ともいわれ浮世絵師の歌川広重の名所江戸百景の一つにも描かれている ↓
寛永3年(1626年)、沢庵和尚が弁才天を祀ったことに始まると伝えられる。明治になって利田神社になり、祭神も弁才天から市杆島姫命にかわった。

鯨塚
富士山の形をした石塚で「鯨碑」と篆書で書かれている。
寛政10年(1798)、大きな鯨が品川沖に現れ、漁師達は総出で小舟を操り、鯨を天王洲の岸へと追い込み、砂浜に乗り上げたのを捕まえた。品川宿や江戸市中の人々にも広まり、第11代将軍家斉の耳にも入り、見たいとのことで今の浜離宮、当時の浜御殿沖まで、鯨の死体を小舟にくくりつけて引いて行った。長さが約18メートル鯨は、後に解体され、油を搾ったり、背骨は分解して持ち帰り家の手水鉢の台や縁台に使った。それ以外の沢山の骨は、利田神社境内に集めて埋めてその上に「鯨塚」の碑が建てられた。

品川浦
室町時代から港として開けた所で、江戸時代には江戸に近いことから漁業や海苔作りが盛んになり、将軍家にも献上するようになっていた。品川の海は、江戸市中からの行楽の場でもあり、キスやハゼ釣り、舟遊び、潮干狩りで賑わった。
広重の絵の中央下にあるのが利田神社。

絵の神社の手前の入江部分にいる船頭さんが、今、同じ方向で見たら、、、こんな風景。
江戸時代と比べると、埋め立てが進み、品川界隈もずいぶん変わったものだ。
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