ザンジバルで一泊して迎えた朝。

午前中、世界遺産であるザンジバル島の旧市街のストーンタウンを案内してもらう。

イギリスの伝説のロックバンドであるクイーンの今は亡き フレディ・マーキュリーの家。
本名は Garrokh Bulsara。
かつて、彼の両親(ペルシャ系インド人)と妹と住んでいた所で、1954年8歳の時にインドの寄宿学校に行き、その頃から友達たちにフレディと呼ばれるようになった。休みになるとザンジバルに帰って来ていたが、1962年学校を修了すると、ザンジバルに戻った。
しかし、1964年の革命後、多くのイギリス人とインド人がザンジバルを去り、フレディ・マーキュリー一家もそうで、二度とザンジバルに帰っては来なかったとのこと。(驚いたことに、フレディ・マーキュリーの日本語版 wikipedia には、彼の家として出ている写真が 「カラユキ」 さん達が住んでいた娼婦宿・・・ カラユキさんについては<22>で)
アフリカ大陸本土であるタンガニーカ共和国と、ザンジバル共和国が、1964年に併合してタンザニアが出来た。
以前は、イギリスのパスポートを所持していてイギリスにも行くことが出来たが、今はタンザニアのパスポートとなっている。
1964年当時、10年後に話し合いを再度持つ予定で、その時には50年後にタンガニカとザンジバルに再度別れるということで併合したそうだが、未だその話し合いはされていないとか。
ザンジバルでは石油があり、タンガニカでは金などの鉱物資源がある。


アラブの砦
18世紀初頭のもの。
今では、この空地でコンサートが開かれるなどしている。


驚嘆の家
1883年に建てられた。
島で一番背の高い建物で、スルタンの宮殿だった。
奥の壁が壊れてしまい、現在は上階にあがることは出来ない。
初めて電気が通り、エレベーターや水道が完備された。


そばに生えていた木なのだが、この根を利用すると。
中絶が禁止されているので、隠れて中絶する際に、
この根を茹でて2日に1度飲んで、赤ちゃんを流すのだとか。

宮殿博物館
公的な驚嘆の家に対し、こちらは私邸だった。
1828年に建立。
12人のオマーンのスルタンが住んでいた。
最後はイギリスのものに。

案内してくれた人曰く、前日には秋篠宮ご夫妻が
ここに来られていたとのこと。


上階からは、ザンジバルの海が見渡せる。
プリズン島
かつてはイギリスの牢獄に使われた隔離島だったが、今はシュノーケリングなどのスポットに。

インドの黒檀のテーブル、ヴェネチアングラス、、、などなど、各国からの調度品がある。
陶器は日本製。大人の部屋には、インドからの象牙もあった。


夫人の部屋。
4人の奥さんがいるが、ここにはファーストレディが住むことが出来、75人のお妾さんがおり、30人の召使いがいた。

ヘナを手に描いてもらう為の椅子


エレベーター

ストーンタウンの街の建築はセメントではなく、本土からのコーラルストーン、ライムストーン、クレイなどを使っている。





ロイヤルファミリーが住んでいた家のドア




扉の上の部分が、インド式のアーチになっているものや、そうでないアラブ式のままのものなどあるが、いずれにしても、金色などの突起物が扉に付いており、その大きさなどがその家の「格」を表しているのだとか。

この後は、お肉やお魚の市場、そしてかつては奴隷の市場があった所などを案内してもらった。
その様子は<22>で。


ホテルの朝食では、ロゼのスパークリングワインも
ビュッフェと共にいただけるので、ついつい朝から。
ビュッフェと共にいただけるので、ついつい朝から。
午前中、世界遺産であるザンジバル島の旧市街のストーンタウンを案内してもらう。

イギリスの伝説のロックバンドであるクイーンの今は亡き フレディ・マーキュリーの家。
本名は Garrokh Bulsara。
かつて、彼の両親(ペルシャ系インド人)と妹と住んでいた所で、1954年8歳の時にインドの寄宿学校に行き、その頃から友達たちにフレディと呼ばれるようになった。休みになるとザンジバルに帰って来ていたが、1962年学校を修了すると、ザンジバルに戻った。
しかし、1964年の革命後、多くのイギリス人とインド人がザンジバルを去り、フレディ・マーキュリー一家もそうで、二度とザンジバルに帰っては来なかったとのこと。(驚いたことに、フレディ・マーキュリーの日本語版 wikipedia には、彼の家として出ている写真が 「カラユキ」 さん達が住んでいた娼婦宿・・・ カラユキさんについては<22>で)
アフリカ大陸本土であるタンガニーカ共和国と、ザンジバル共和国が、1964年に併合してタンザニアが出来た。
以前は、イギリスのパスポートを所持していてイギリスにも行くことが出来たが、今はタンザニアのパスポートとなっている。
1964年当時、10年後に話し合いを再度持つ予定で、その時には50年後にタンガニカとザンジバルに再度別れるということで併合したそうだが、未だその話し合いはされていないとか。
ザンジバルでは石油があり、タンガニカでは金などの鉱物資源がある。

この門は、障害を持った子供などの
孤児院だった。
孤児院だった。

アラブの砦
18世紀初頭のもの。
今では、この空地でコンサートが開かれるなどしている。


驚嘆の家
1883年に建てられた。
島で一番背の高い建物で、スルタンの宮殿だった。
奥の壁が壊れてしまい、現在は上階にあがることは出来ない。
初めて電気が通り、エレベーターや水道が完備された。

ザンジバルドア
上のアーチ型のものはインド風。
下の長方形の扉のある部分はアラブ風。
さすがにここのザンジバルドアは大きく立派。

上のアーチ型のものはインド風。
下の長方形の扉のある部分はアラブ風。
さすがにここのザンジバルドアは大きく立派。

本来は博物館なので、各階を見ることが出来るのだが、
この時は工事の為、一階のみ。
ダウ船が展示されていた。

この時は工事の為、一階のみ。
ダウ船が展示されていた。

入口に手に綺麗なヘナをしているおばさんがいたので、見せてもらった。
ヘナは、ミセスが重にして、未婚の女性は何かセレモニー以外で
公衆の場でするのは良くないとのこと。
ヘナは、ミセスが重にして、未婚の女性は何かセレモニー以外で
公衆の場でするのは良くないとのこと。

そばに生えていた木なのだが、この根を利用すると。
中絶が禁止されているので、隠れて中絶する際に、
この根を茹でて2日に1度飲んで、赤ちゃんを流すのだとか。

宮殿博物館
公的な驚嘆の家に対し、こちらは私邸だった。
1828年に建立。
12人のオマーンのスルタンが住んでいた。
最後はイギリスのものに。

案内してくれた人曰く、前日には秋篠宮ご夫妻が
ここに来られていたとのこと。
入口に置かれていたマシンガンはアメリカ製。


上階からは、ザンジバルの海が見渡せる。
プリズン島
かつてはイギリスの牢獄に使われた隔離島だったが、今はシュノーケリングなどのスポットに。

インドの黒檀のテーブル、ヴェネチアングラス、、、などなど、各国からの調度品がある。
陶器は日本製。大人の部屋には、インドからの象牙もあった。

Salmeの写真
裏の部屋に飾られていた写真は、スルタンの娘。
反対を押し切ってドイツ人と結婚する為に、
ザンジバルから逃げた。
裏の部屋に飾られていた写真は、スルタンの娘。
反対を押し切ってドイツ人と結婚する為に、
ザンジバルから逃げた。

夫人の部屋。
4人の奥さんがいるが、ここにはファーストレディが住むことが出来、75人のお妾さんがおり、30人の召使いがいた。

ヘナを手に描いてもらう為の椅子


移動式洗面台。奴隷が洗面台を運んでいた。
島の飲み水は井戸。
独立後、初めて海外から手を差し伸べたのが
中国で、中国により井戸が出来た。
島の飲み水は井戸。
独立後、初めて海外から手を差し伸べたのが
中国で、中国により井戸が出来た。
エレベーター

ストーンタウンの街の建築はセメントではなく、本土からのコーラルストーン、ライムストーン、クレイなどを使っている。




水道も電線と同じく頭上の線で。

ザンジバルドア各種
ロイヤルファミリーが住んでいた家のドア




扉の上の部分が、インド式のアーチになっているものや、そうでないアラブ式のままのものなどあるが、いずれにしても、金色などの突起物が扉に付いており、その大きさなどがその家の「格」を表しているのだとか。

この後は、お肉やお魚の市場、そしてかつては奴隷の市場があった所などを案内してもらった。
その様子は<22>で。
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