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ダーバン市街からわずか北に17キロに位置するアムシュランガ Umhlanga に住んでいるが、ダーバン市街は治安が悪いということで、お昼間でもほとんど車で通過するのみ。
しかしダーバンは、ヨハネスブルグ、ケープタウンに次ぐ第三の都市であり、ダーバン港はアフリカ最大の港で、世界でも9番目の規模。1497年にヴァスコ・ダ・ガマが停泊するなど歴史も古い。

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(これらの画像は、ポートエリザベスに行った時の機上から撮ったもの)

南アの大半の民族であるバントゥー系民族は、もともとアフリカ大陸の中央におり、そのバントゥ系が南下、拡散した。1652年にケープタウンにオランダ人がやって来て以降、ダーバンにもアムゲニ川 Umgeni を使って船で上流まで上がって行き、白人がどんどん入植して行った。

以前にちらっと自分達の車で見てまわった程度だったので(その様子は こちら)、せっかく近くに住んでいるのだから、ダーバンの事をもう少し知りたいと思い、詳しい方にガイドしてもらうことにした。

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アパルトヘイト時代に、サトウキビのプランテーションの労働力として、当時イギリスが植民地にしていたインドからインド人を連れて来た。この埠頭からインド人を上陸させ、マハトマ・ガンジーもここから南アにやって来た。今では、インド人達の聖地?なのか、大勢のインド人の釣人で賑わっている。
当時、黒人達は狩猟を行ってその肉を食べており、海の生き物は神聖なものとして魚を獲ることはしなかった。一方、白人は海を渡ってやって来て魚なども食べていた。どおりで、今でも釣りをしている人は、インド人か白人系ばかりかと。
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もともとは軍のベースだったのだが、後に映画のスタジオになった。今は、廃屋となっている・・・

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この辺りが安全で賑わっていた頃はオシャレな海沿いのアパートだったのだろうが、今現在はシニアが住んでいるアパート。

この辺り一帯の海岸線は「ゴールデンマイル」と言われているが、それは白い砂のケープタウンと比較すると、砂の色が茶色く太陽光で金色に見えることから、そう名付けられた。
以前は、タバコ会社がスポンサーとなって大きなサーフィンの大会などが催されていたが、タバコに関する法律が改正されてからタバコは売れなくなり、サーフィンの大会などもなくなってしまった。
驚いたことに、現在でも、この海岸沿いでは夜になると売春婦が立ちんぼしているのだそう。
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リクシャ
ズールー族は狩猟の民であり農耕は好まない為、入植したイギリス人のもとサトウキビ畑では働きたがらず、多くの人手を要したことから、植民地のインドから大勢の人達を連れて来た。また、同時に、日本にも人手を求めて移民しないかと売り込みに(?!)行ったのだが、日本政府はそれを断った。ただ、その時に日本で使われていた人力車を見て気に入り、それを南アに持ち帰り、公共交通とした。その労働力には、畑で働きたがらなかったズールー族を使って失業対策とし、その後、そのリクシャの人は、タクシーの運転へと移行していく。
そして現在のリクシャは観光用のみ。もし、日本が南アへの移民の申し出を受けていたら、「移民」 という名のもと、奴隷に近い状態で働かされ、アパルトヘイト時代には虐げられていたかと思うと、ビックリだった。

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この建物は、1931年に開業した病院で、全ての人種の為の病院だったが、海岸沿いには白人ばかりが住んでいたので有色人種が近所を通って病院に行くことを嫌い、1980年代のアパルトヘイトでの人種隔離政策強化により、病院は閉鎖された。

そして、現在はこの建物の横には大きな病院。海岸には病院用のヘリポートまである。かつての白人専用。。。
現在の南アでは、HIVやAIDSや結核患者が増加している。世界的には子供の死亡率は下がっているものの、南アでは未だ上昇しており、地域によっては、妊婦の50%がHIVポジティブで、5歳以下の子供の50~60%がHIVで亡くなっている。
この建物は1980年代に閉鎖されて以来放置されて、屋根は壊れハトが住み着いている状態だったが、子供の為の病院建設を唱える動きがインド系女医の人達を中心に起こり、昨年より徐々に建物が改築されて、子供の病院として運営しているのだそう。

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サンコーストカジノ
アパルトヘイト時代には、カジノは禁止されており、アパルトヘイト撤廃後に造られた。

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60憶ランド(約600億円)をつぎ込んで造られたウシャカマリンワールド。アフリカ大陸で一番大きな水族館施設なのだが、日本の水族館に比べると微妙かなぁ・・・ その様子は こちら

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1920年創業のバー。(今は廃屋)税金などを全く払わず、交易で莫大な富を得た人がオーナーだったが、その子孫はその状況を恥じて、ハワードカレッジに寄付したとのこと。

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ミレニアムタワー
南アの軍隊のもので、緑のフェンスが何気にあるが、その奥は軍のベースとなっている。

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クルーガーランド金貨や、クルーガー国立公園などでも有名なクルーガー氏が、かつて住んでいた家があったのだが、今はすっかり更地。

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サンシティを造った人の家だったが、今はすっかり売り物件。

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かつてはここが一番の目抜き通りで、1860年に南アで初めて蒸気機関車が走った。

当時は the Point と Pine Terrace との間のわずか8キロメートルに過ぎなかったが。しかし今は、道の左側の建物も空き家。右側に車が停まっているのは、私のお気に入りのイタリアン、Ciao Bella がここにあるので(その様子は こちら)、そこに来ているお客さんの車かと。

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ジョン・ロス・ハウス
スコットランド人だったジョン・ロスは、モザンビークの人達に薬などを持って治療に行こうとし、その行動に感謝したズールーの王様が護衛をつけた。住居となっている、ジョン・ロス・ハウスの庭には、その像が立っている。

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ヴァスコ・ダ・ガマの碑と時計台
ポルトガル人のヴァスコ・ダ・ガマが、1497年12月クリスマスの時に、ダーバンにやって来たのが最初だが、この碑を400周年に建てようとした時はイギリスの植民地だった為、ポルトガル風ではなくイギリス風のモニュメントを建てざるを得なかった。

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ヨットは約700隻。

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ダーバン港
第二次世界大戦時、ドイツ軍がナミビア方面から潜水艦でやって来ようとするのを防ぐ為、イギリス軍が港に、鉄の杭を打ち込んだ。
現在、この港から多数の中古車をスワジランドやボツワナに輸出している。浅瀬で何人がいる。何をしているのかと思えば、蟹を獲っているのだとか!
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サトウキビのプランテーションを行っているので、砂糖工場も多々。丸い屋根が砂糖工場、左の四角い建物は小麦や、トウモロコシで作るメイズの工場。

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この石垣はヴィクトリアエンバンクメントと言われていて、当時の失業者対策としての公共事業だった。

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↑上は鉄道の駅、→右は隣にあるチケットブースの入った建物。
イギリスで学び弁護士となったマハトマ・ガンジーが、ここで1等席の切符を買った。しかし、その車両で車掌に人種差別で、1等席からガンジーを追い出し、切符を持たない白人にそこに座らせた。ピーターマリッツバーグでの出来事だったが、その差別を受けた体験が、ガンジーの大きな転換期となった。

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旧市役所
今は郵便局として使われているが、以前は、ウインストン・チャーチルが、プレトリアで拘束され、ここに連行されたこともあるとか。

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現在の市庁舎
旧市役所が手狭になった為に、新しい市庁舎のデザインを公募。Stanley G. Hudson という建築家がコンペを勝ち取ったのだが、彼は北アイルランドのベルファストの市庁舎に影響を受けて、1910年にそのレプリカを建立。クラシック・エドワーディアン・ネオ・バロックスタイルなのだそう。
市庁舎の役目のみならず、自治体の事務所、図書館、ホール、ダーバン美術館、ダーバン自然科学博物館が入っている。

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戦没者の名前が刻まれているのだが、当時は白人の名前のみだったので、アパルトヘイト撤廃後に黒人の名前も追加した。

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Farewell Square
さよならと言う意味ではなく、Francis Farewell から名付けられた公園内には、かつて歴史上有名な人達の銅像が立ち、それぞれ説明してもらったのだが、いかんせん南アの歴史にうとい我々。。。

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まずオランダ人が入植したが、オランダ人のみならずドイツ人やフランス人もやって来て 「アフリカーナー」 となった。その後でイギリス人がやって来た為、「アフリカーナー=ボーア人」 対 「イギリス人」 となり衝突。アングロ・ボーア戦争となる。

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1940年の公衆トイレは、TOILETとは書いておらず、アメリカ風に LAVATORY と。

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銀行のABSAビル
アパルトヘイト時代に政府をサポートしていたので、アパルトヘイト撤廃後は、黒人達に口座やカードなどを容易に作れるようにした。

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旧裁判所 
ガンジーは、当時は頭にターバンを巻いていた為、法廷に敬意を払っていないということで、退出を求められた。

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Graham Stallの像  ズールー族を兵隊として訓練した。

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ダーバンメンズクラブ
イギリス紳士の社交場だったが、裏から女性も入ることが出来たのだとか。

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Juma Masjid Grey Street にあるモスク。
1881年8月に、Aboobaker Amod Jhaveri と Hajee Mohamed と言う人達が、K Munsamy から115ポンドで土地を買って建てたモスク。後により土地が買い足され、広げられた。建てられた当時は、南半球で一番大きなモスクだったのだが、今は他に大きなモスクが造られている。
1884年に拡張され200名の宿泊施設や6000名が祈れるようになっており、毎週金曜には、大勢のイスラム教徒がここで祈りを捧げにやって来ていたのだが、911以降、モスクは閉鎖され、商店が入っているのみ。

結局、安全上、ほとんどを車から観光したに過ぎないが、最近になって、綺麗な市バスを導入しかけていたり(一回の乗車は8ランド=約80円)、各観光名所を回るバスを運行するなど、少しずつではあるが、イメージアップに努めているもよう。