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ダーバン近郊には4つのタウンシップがあり、そのうちの3つ Inanda、Ntuzuma、Kwa-Mashuh は隣接しており、それぞれの頭文字をとって、INK地区と言われ、南アでは2番目に大きな貧困街。
隣の工場などが多い Phoenix も併せて PINK地区とも言われている。

タウンシップは、黒人隔離政策のこと。もともと黒人が住んでいた土地を奪われ、人々が ship された(送られた)ことから。

アパルトヘイト時代の黒人対策は、それにしても酷い。
1940年代、ケープタウン郊外のワインランドと言われるブドウ畑が続くエリアでは、安価で黒人達を雇っていた為、彼らは食べ物にも困り、農園主はワインを絞った後のブドウの絞りかすを彼らに食糧として与えた。そのかすにも勿論アルコールは含まれている為、多くの黒人労働者がアル中になってしまった。
黒人は通行証を絶えず携帯していなければならず、警察などに言われれば見せなければならないという法律があったが、その通行証を更新する際には、真っ裸にされるという扱いを受けていたとか。

まずはインド人のタウンシップだったフェニックス Phoenix へ。
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インド人も有色人種というカテゴリーで差別されていたが、黒人よりも優劣としては上だったので、↑上の黒人のタウンシップと、←左のインド人のタウンシップとでは、建物も違う。現在は、この建物には、インド系の人のみならず、色々な人が住んでいるとのこと。

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ガンジーの家 へ。

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ガンジーは「Indian Opinion」なる新聞を発行するなど活躍。

若かりし日のガンジー夫妻
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1869~1948年の生涯で、1893年24歳の時から21年間ここに住んでいた。アパルトヘイト時代の1985年に家は壊されてしまった。再建された家は、現在資料館になっていて、その名前は「SARVODAYA」。より良い人生という意味。
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イナンダ Inanda へ。
タウンシップのエリア外には、さまざまなバラック的な家が立ち並ぶ。それでもこの角の小屋?はキオスクのようなお店で、子供達が買いに来ていた。

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Ohlanga Highschool


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1900年に、ANC(現在の政権与党だがアパルトヘイト時代は抵抗勢力)の最初の党首だった Dr. John Langalibalele Dube 氏が、200ヘクタールの土地を使って学校を創建。現在、8年生~12年生の約1300人が学んでいる。ちょうど行った時には、彼のお孫さんが来ていたが、メルセデスベンツのSクラスに乗っていた!
彼の肩書は、エッセイスト、哲学者、教育者、政治家、出版および編集者、小説家、詩人。アメリカにも渡って学んだ経験もある。
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Dube氏のお墓。周りにはその子供達のお墓がある。Dube氏は、1946年2月11日に亡くなったが、マンデラさんが長年の投獄から釈放される時、あえて2月11日まで引き延ばされて釈放されたという曰く付き。
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彼の家も復元されているが、この壁は当時のもの。

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非常に多才で、ピアノも弾けたのだそう。Dube氏のことは、「Mafukuzela 」と讃えられている。その意味は、興す人とでも言うニュアンスか。
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その学校のホールは、長い長い投獄生活から釈放されて、初めてマンデラさんが投票した記念すべき場所でもある。
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尚、イナンダに、キリスト教系の女子の学校を造ったところ、ズールー族では認められている一夫多妻には反対の教育を施す為、その教育を受けたズールーの女性達は結婚したがらなくなってしまった。その為、キリスト教系の男子校も造って、その学生と結婚させているとか。

イナンダの目抜き通りへ。
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生きたまま売られている鶏。と思いきや、3人がかりで引っ張られて行く山羊さん。自分の行く末をわかっているようで、必死に歩くまいと抵抗していた。

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お昼ご飯はイナンダの目抜き通りのBBQ屋さんの Sbu's Lounge で。

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ブライ(南アのBBQ)に欠かせないお肉やソーセージに加え、ここでは牛のレバーもあった。

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ブライで調理されたお肉料理は、シサニャーマと言う。注文をしてから、炭で焼いてくれる。

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焼けるまでの間、一階のバーでビールを注文。お店の中なのだが、カウンターと席との間には格子があって、キャッシャーなどに手がかけられないようになっている。
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ビールを持って2階席へ。こちらは普通のバーラウンジになっていた。

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まず、ボウルに受けてもらいながら席でお水で手を洗う。そして、ガイドさんが切り分けてくれ、最初に毒見をするのが決まりとのことで、まず彼が一口。そして、フォークやナイフは使わず、それぞれ手でいただく。
お肉にはあらかじめ塩味が少しつけて焼いてあるが、好みで塩や辛いオレンジのソースをつけるのだが、このソースがただものでないぐらいに辛かった。
白いマッシュポテトのようなものは、トウモロコシの粉を練ったパップで、ここのお店のものは少し野菜も入りお味もしっかりついており、今まで食べた中で一番美味しかった。トマトの上などに散らしてあるものも、青唐辛子で非常に辛い。お肉もTボーンの骨付き部分、フィレ部分などと別れていて、それぞれ美味しい。
食べ終わると、お湯が用意されていて、再び席で手を洗う。

イナンダ渓谷
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一番小さなアンテロープのダイカーや、猿、ヘビなども生息している。村人は、それらもハンティングして食べるとのこと!

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Muzinyathiの滝
 Muzinyathiとは、バッファローの家という意味。

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この辺りは政府が建てた建物のタウンシップではない、普通の村なので、お手洗いは汲み取り式となっており、家から少し離れた所にある。

Kuwamashu (クワマシュ)
マシャイヤという人が土地の所有者だったことから、「マシュ」という地名になった。

イメージ 29目抜き通り

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大音響で音楽を流し、右の車の前のベージュのパンツの女性がなかなかセクシーなダンスを披露していて、道行く男性陣もニコニコしながら、眺めていた。

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昔のお墓。今は使っていない。南アは土葬なのだが、この一帯に洪水が起こり、埋葬したご遺体が出て来てしまったのだとか。

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白い石で囲ったものは Shembe と言われるもので、ズールー族の土着信仰とキリスト教が融合したもの。
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黒人の人達はとにかく信仰心が篤い。日曜や土曜にも、綺麗に着飾って教会に行く。おばさん3人は、その格好から、ローマカトリック教徒なのだそう。

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コンビニ? お店も格子になっていて、その間から品物やお金を授受する。

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タウンシップ内の家でお葬式をしていた。その家庭にもよるが、基本的にお葬式では何百人単位で弔問客がやって来る。親族は牛、羊、鶏を何頭もつぶして、弔問客に食事を振る舞うが、準備が大変なので、ご近所の人達も総出で手伝う。テントを張って簡易トイレまで用意してあった。

タウンシップの一軒を見学させてもらった。クワマシュのタウンシップはAからK地区まであり、K地区のお家へ。
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政府が造ったもので、間取りは全てほぼ同じ。玄関を入るとそこはリビング。左側にはベッドルームが2つ。リビングの奥は台所になっている。おばあちゃんとお孫さん3人が居たのだが、さすがに家の中を撮るのは失礼かと写真は撮らず。リビングには大きな薄型液晶テレビがあった!

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キッチンの裏側にも洗い場があり、水道が引かれている。

裏庭には洗濯物
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ここの家の男の子2人に、写真を撮っても良い?と聞いたら、撮って良いよと言ってくれた。一番上のお兄ちゃんはとっても流暢な英語で、我々は何人か?と。日本人だと言うと、では日本語でハローは何て言うんだ?と。教えると、何度も繰り返して覚えていて、上手だった。

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後から妹もやって来たので、一緒に。

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カメラのみならず、携帯で撮って、その画像を見せたところ、女の子は、自分の髪が爆発していることに驚いてこのしぐさ。それを見て男の子達も大笑いし、女の子は後から一生懸命、髪を撫でつけていて、とっても可愛かった。

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この家はお隣。古いタイプで、昔は健在にアスベストなどを使っていたとのこと。

驚いたことに、タウンシップの家の方が、村の家よりもずっと高額。タウンシップの方が行政が造った建物なので、電気や水が完備されているが、村の家々はそうではない。タウンシップの一軒は、30万ランド(約300万円!)するのに対し、村の家の場合は、村の首長に面談して、気に入ってもらえれば住む許可がおりるが、費用としては5000ランド(5万円)程度で問題ないとか。

1日ツアーをお願いしたのだが、ダーバン市街の概要(その1)、多数のマーケット巡り(その2その3)、そしてフェニックス・イナンダ・クワマシュと言ったタウンシップエリアの見学、そこでの伝統料理などをいただいた盛りだくさんな内容でとても充実して良かったかと。