シディ・ブ・サイド のホテルでの朝食。

イメージ 1画像にはないが、このクロワッサンの下に、チョコクロワッサン、デニッシュなどもあり、後から思えばこの旅行中で一番美味しいパンだったかと。
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ストロベリージュースがつき、フィグ(イチジク)のジャムなども。オレンジの花の蜂蜜が美味しかった。


ただしオムレツはただただ平たく焼いた卵を折っただけで、これはいただけない。






イメージ 3この旅でとにかく見かけたのはオシャレなカフェだろうが、普通のカフェだろうが、喫茶店風だろうが、クレープ屋さんも兼ねたカフェだろうが、男性客しかいないこと。
男女平等とは言うものの、やはり女性を表に出したくないという男性の価値観なのか、男性はあまり働かず女性が家事をする?イスラム圏の雰囲気の為なのか、首都チュニスの目抜き通りのカフェでようやく女性を見かけたぐらい。


シディ・ブ・サイドからカルタゴ(カルタージュ)に向かう辺りは、高級住宅街。首都チュニスから12キロ程度で、各国大使館、別荘などがある。

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大統領邸は、とにかく壁がずっと続く。

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途中で、けたたましいサイレンと共に、
要人警護の車列が追い抜いて行った。
どの車も三菱パジェロ。





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豪華な一軒家が続く。
この辺りは、各国の大使公邸が多いとのこと。


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一番大きな門の大使館はサウジアラビア大使館。



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巨大なホテルは、クエート
資本の5つ星ホテル。





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その向かいには迎賓館。






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迎賓館の何処までも続く壁の反対側からは、地中海が一望できる。



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イタリアのシチリア島まで90キロの位置にあり、夏の晴れた日にはシチリア島を見ることも出来るのだとか。



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チュニジアの松とその実。
乾燥して開いた実は、女性の眉墨などに使われ、
腸の薬にもなるとのこと。



世界遺産でもある カルタゴ(カルタージュ)へ。

イメージ 14まずビュルサの丘へ。

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そこにはひときわ目立つサン・ルイ教会。
1270年、十字軍に参加してこの地で果てたフランス国王ルイ9世の為に、1890年に建てられた教会。


しかし、しかし、13世紀のものなどは、ここでは古い物には入らない。

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レバノンから、紀元前1100年にやって来たフェニキア人は、まずここから60キロほど離れたスースに都市を造り、そして紀元前814年、ここにカルト・ハダシュトという街を造った。しかし、フェニキア語が話せないローマ人達によって、カルタゴと発音されるようになった。

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フェニキア人の遺跡は、もはやレバノンには残っておらず、ここにしかないそう。
当時からトイレやシャワーの施設があった。
水は四角い所に雨水を貯めるようになっていた。

東のレバノンから来たので、祈りを捧げる場所は、東を向いて造られていた。




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紀元前264年~紀元前146年までの間に起こった第1次ポエニ戦争~第3次ポエニ戦争で、フェニキア人はローマ軍と戦うが陥落。
ローマ軍がカルタゴの街を全て焼き払い、塩をまいて人も住めず作物も育たないようにした。
この石臼は、フェニキア人のもので、焼けて黒くなっている。
一部の建物のライムストーンの壁には、炎の跡も残っているのだそう。


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荒廃したカルタゴだったが、紀元前29年にローマ人が住み出す。
フェニキア人のお墓の上を馬場にして馬を走らすなどしていた。
泉しかなかったが、全人口をまかないきれない為、135キロも 
離れた山から水道橋を引いて、この井戸からくみ上げていた。







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バジリカの跡
「バジリカ」 という言葉は混同されがちなのだが、本来の意味はフォーラム・集会所で、シリアのバジリカは裁判所、ビザンチンの時代のバジリカはカテドラル(教会)を意味する。

ここはビザンチン時代のバジリカ跡。
ギリシャ時代と同様、3大要素の水・空気・光を貴び、3大神であるジュピター、ジュノー(ユノー)、ミネルバがあがめられていた。


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フェニキア人の石棺。砂岩で造られており、
決してお金持ちではない人のもの。
当時のフェニキア人は、農業や商業で 
生計をたてていた。


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ビザンチン時代の石棺。
紀元後5世紀のもの。
中央のマークがビザンチン時代の象徴。



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発掘の為に、空から地下を透視出来る特殊なカメラで探索するなどし、遺跡と思われる物の上に住んでいた住人などを転居させるなどした。

しかし、25メートル下に未だモザイクなどがあるのだが、フランスが植民地時代に木を植えてしまい、その根が広がって地下の遺跡を傷めてしまっているとも。










この後は、併設されているカルタゴ博物館へ。
その様子は<4>で。