カルタゴ博物館、円形闘技場、ローマ劇場、ローマ人の住居跡を観た後、一旦、シディ・ブ・サイドに戻って港のそばのレストラン Pirate で昼食を。

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お決まりセルティアビール



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イカの入ったサラダと、チュニジア版
春巻きとでも言ったドワ・ドゥ・ファトマ。




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イシモチか、小さなスズキと言ったお味のお魚のグリル。
シンプルなのだが、炭を使った網焼きの香ばしさが非常に美味しかった。



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デザートは、
レモンシャーベットですっきりと。



再びカルタゴ(カルタージュ)に戻って観光を。

アントニヌスの共同浴場

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共同浴場は海に面している。

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まず先に、そばにある海とは逆のエリアへ。

そこはかつて子供達の
学校があった所。

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自然死した子供の石棺も。



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地下のチャペル。
人ひとりが入れるぐらいの規模だが、モザイクが綺麗だった。


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この辺りには、人類で最初の商売、イタリアのポンペイでも発掘されたのと同様に、娼婦宿があったのだとか。



ちゃんと下水道も完備されていた。


そして共同浴場へ。
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ローマのカラカラ浴場に次ぐ2番目の規模をほこる。

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ちょうど、当時の予想図と、現在とを比較する為に柱があるので、その大きさがわかるかと思うが、天井の高さは30メートルはあったのだそう。
因みに、この柱はユネスコが世界遺産とした時に、復元されたもの。

まるで映画の 「テルマエロマエ」 の世界。丁度、11月末に日本に一時帰国した際のキャセイのフライトで 「テルマエロマエ2」 を観ていて偶然にも予習となったが、まさしく。 おりしもチュニジアからの帰国便のエミレーツでもやっていたので、復習に再度観てしまった(笑)

お風呂にやって来た人は、クロークに荷物や衣類を預け、入場料を支払った証としてコインのネックレスをつけるて入浴する。お風呂のみならず、運動場、サウナ、マッサージルーム、シャワーなどが完備されている。
午前に男性客、午後に女性客が入るのだが、300人の奴隷が従事し、夜に彼らも掃除も兼ねてお風呂を使用していた。


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当時、ローマ軍が配下とした地域の人達を奴隷としていたので、スーダンなどアフリカの黒人のみならず、ドイツやスペインの白人をも奴隷として、浴場の地下で働かせていた。
奴隷は地下の共同の宿舎で寝泊まりし、太陽も月も見ないまま死んでいく運命にあった。
お風呂は薪を24時間ずっと燃やし続けなければならない。一旦止めてしまうと、お風呂を元の状態に戻すには2週間かかったのだとか。



古代カルタゴの港
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トフェ

フェニキア人の時代には、生まれた子供が男子の場合、その第一子を神に捧げることが一番神の加護を受けるとしていた。
その為、男児の首を切り、頭部も身体も燃やして灰にし、それを骨壺に入れて埋葬し、その上に墓石を立てた。

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この石の台の上で 
儀式が執り行われた。







フェニキア人の約500万人もの男児が生贄とされた。

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この墓石には双子を捧げたという意味で 
2人の形が刻まれている。


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こちらは、タニトの印が刻まれている。
タニトはカルタゴ博物館でも観たが、カルタゴの守護神であるタニト神のことで、死と再生を司る。




ただ、フェニキア人のお金持などは、生贄をしたことにして実際にはしていなかったり、あるいはお金持ちをねたんだ人から、実際にそのお金持ちは生贄を捧げたにもかかわらず、生贄をしていないと密告されるなど、色々とあったのだそう。
ローマ時代になると、人の生贄は禁止され、動物が捧げられるようになった。


この後、モザイクで有名なバルドー博物館へ。その様子は<6>で。