東京に3泊した後、大阪に移動。紅葉を京都に観に行きたいと思ったが、連休初日。とても混んでいそうだったので、ちょっと郊外の長岡に行ってみることにした。
光明寺
以前に一度来たことがあったが、紅葉の時期ではなかったので、有名なもみじ参道を観に。



本堂の御影堂(みえどう)から釈迦堂へと続く廊下。


長岡天満宮まで少し散策。

柿がなっていたり、皇帝ダリアが咲いていたりと秋の風情が漂っていた。
長岡天満宮

お腹が空いたので、錦水亭でお昼を。
その様子は追って。
錦水亭からの眺め。
遠くに長岡天満宮の大きな白い鳥居が見える。

庭には白鳥がいて、我々の姿を見ると
寄って来てくれた。
餌がなくて申し訳なかったが。。。


もともと、長岡天満宮周辺は、菅原道真の所領で、右大臣にまでなったが、藤原時平の反感をかい、九州は大宰府へと左遷された。平安京から九州に向かう途中、この地を訪れたことから、見返り天神とも言われる。
菅原道真は、お供の中小路宗則と別れる際に、自分の姿を模した6センチ程度の木像を贈った。
左遷から2年後の延喜3年(903年)、道真は大宰府で亡くなり、宗則がその木像をご神体として祀ったのが、長岡天満宮の始まりとのこと。
七五三の時期と言うこともあって、
お子さん連れのお参りの人が多かった。

因みに、長岡京は、桓武天皇の勅命により、延暦3年~13年(784年~794年)まで山城国乙訓郡にあった首都で、現在の京都府向日市、長岡京市、京都市西京区にあった。
光明寺
以前に一度来たことがあったが、紅葉の時期ではなかったので、有名なもみじ参道を観に。


建久9年(1198年)創建。
西山浄土宗の総本山。
この粟生の里では、法然上人が初めて
念仏の教えを説いた地なのだそう。
西山浄土宗の総本山。
この粟生の里では、法然上人が初めて
念仏の教えを説いた地なのだそう。

本堂の御影堂(みえどう)から釈迦堂へと続く廊下。

信楽庭(しんぎょうてい)の大きな岩3つは、弥勒三尊を示し、18ある石は、阿弥陀如来が約束した48の願いのうちの18番目である「念仏往生の願」を象徴しているのだそう。

真っ赤なもみじには少し未だ訪れた時期が早かったようだが、グラデーションが綺麗だった。

その名ももみじ参道は、両側にもみじがあるのだが、背が非常に高いので、陽の光が良く当たる上の方から徐々に紅葉している状態だった。



真っ赤なもみじには少し未だ訪れた時期が早かったようだが、グラデーションが綺麗だった。

その名ももみじ参道は、両側にもみじがあるのだが、背が非常に高いので、陽の光が良く当たる上の方から徐々に紅葉している状態だった。



長岡天満宮まで少し散策。

柿がなっていたり、皇帝ダリアが咲いていたりと秋の風情が漂っていた。
長岡天満宮


お腹が空いたので、錦水亭でお昼を。
その様子は追って。
錦水亭からの眺め。
遠くに長岡天満宮の大きな白い鳥居が見える。

庭には白鳥がいて、我々の姿を見ると
寄って来てくれた。
餌がなくて申し訳なかったが。。。


もともと、長岡天満宮周辺は、菅原道真の所領で、右大臣にまでなったが、藤原時平の反感をかい、九州は大宰府へと左遷された。平安京から九州に向かう途中、この地を訪れたことから、見返り天神とも言われる。
菅原道真は、お供の中小路宗則と別れる際に、自分の姿を模した6センチ程度の木像を贈った。
左遷から2年後の延喜3年(903年)、道真は大宰府で亡くなり、宗則がその木像をご神体として祀ったのが、長岡天満宮の始まりとのこと。
七五三の時期と言うこともあって、
お子さん連れのお参りの人が多かった。

光明寺がもみじで有名と言うこともあって、
そちらに大勢の人が訪れていたが、
長岡天満宮にも綺麗なもみじがあった。
そちらに大勢の人が訪れていたが、
長岡天満宮にも綺麗なもみじがあった。
因みに、長岡京は、桓武天皇の勅命により、延暦3年~13年(784年~794年)まで山城国乙訓郡にあった首都で、現在の京都府向日市、長岡京市、京都市西京区にあった。
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