南アの中で一番大きなタウンシップのソウェトを見学することに。
タウンシップとは、アパルトヘイト時代の黒人隔離政策のこと。もともと黒人が住んでいた土地を奪われ、人々が ship された (送られた) ことからそのような名称となった。

アレクサンダータウンシップ
タウンシップの中でも一番古いもので、現在は各戸にソーラー発電なども設置されている。

画像ではわかりにくいが、南アで一番規模の大きな乗り合いタクシー乗り場。
延々と続くので、一体どうやって行先を間違わずに正しい乗り場に辿り着けるのか不思議なぐらい。隣国のジンバブエなどに行く長距離もある。
所謂 「ソウェト蜂起」 が起こった地には犠牲となったヘクター・ピーターソン少年の画像、碑、そして ヘクター・ピーターソン記念館 がある。

1976年、アパルトヘイト政策を敷く政府は、学校でオランダ系白人が話すアフリカーンズ語を授業に導入し黒人にも話すよう決定。
6月16日、黒人学生達はソウェト地区で抗議活動のデモを行ったが、警察が学生達に向けて銃を乱射。
死者176名、負傷者1139名、逮捕者1298名となり、この暴動がアパルトヘイト体制を終焉へと導くこととなった。
(詳しくは wikipedia を)
撃たれたヘクター・ピーターソン少年の遺体を運んでいる青年は、Mbuyisa Makhubu と言う青年なのだが、この写真が当時象徴的に取り上げられたことから、身の危険を感じて南アを脱出し、ボツワナ、そしてナイジェリアへと逃げたとのこと。

この場所が、デモをしていた学生と警察が衝突して、多数の死者が出た所。
現在、事件のあった6月16日は、南アでは 「Youth Day 青年の日」 として祭日となっている。

マンデラさんの家

軒下には、弾痕が未だ残っている。

マンデラさんはこの家に1943年に入居し、15年住んでいて、犬との写真が投獄される前の最後の写真。
収監から解放されて出て来た時の様子は右上の写真。その時は11日しかここには住んでいない。

若かりし頃はボクシングをしていて、その時のベルトなども展示されていた。
マンデラさんには最初の奥さんとの間に4人子供が居たが子供3人とは死別し離婚、2人目の奥さんとの間に子供が2人いたが1996年に離婚し、3人目は故モザンビーク大統領の未亡人。
面白いのは、このマンデラさんの元の家を博物館にするにあたり、元リビア首相のカダフィ大佐、先日亡くなったキューバのカストロ、そしてアメリカの女優ジェーン・フォンダが出資したのだとか!
そしてマンデラさんの家からほんの少し徒歩で移動した所に、同じくノーベル平和賞を受賞したデズモンド・ツツ大司教の家がある。
塀にはしっかりしたセキュリティもある大きな家。
今は親戚の人がいるとか。

この Vilakazi Str は、わずかな距離にノーベル平和賞受賞者を2名も出したと、今ではすっかり観光地化されていて、ここがタウンシップの中とは思えない。
外国人観光客のツアーバスが何台も停まり、オシャレなカフェまであり、お土産物屋が連なる。

観光に来た人の車なのか、お土産物屋の横には、ポルシェのカイエンが停まっていて、それを洗車していた。
タウンシップの中でポルシェだなんて、ただただビックリ!!

渋滞しているからと、左側の歩道の上を何台もの車が走って行くのは、この場所らしいと言えばらしいが。。。
1930年代に造られ、1970年代まで使われていた石炭による火力発電所が、今は隣にバーなどが併設され、バンジージャンプのメッカになっていた。


内部はがらんどう。

インド系の女性!!

Regina Mundi と言う教会へ。

マンデラさんを中心にしたステンドガラス。

黒い母子像の下には、マドンナの目がソウェトを始め
ヨハネスブルグを見ている。


今は綺麗なステンドグラスがはめられているが、ソウェト蜂起の時には大勢の市民が警察の発砲から逃れる為に教会に逃げ込んだ。
当時はステンドグラスではなく、画像右の色をつけたパネルがつけてあり、ピンク色の物は外から受けた弾痕、青の物は内から撃った為に開いた跡が残っている。


これまた驚いたのは、タウンシップ内には綺麗なバス専用道路、そしてバス亭がある。
全て中国資本によるものとのこと。

ワールドカップサッカーの時に造られた93000人収容のスタジアム。
Orlando Studium
その横には所謂 「シャック」 と言われる違法に住んでいる人達のバラックが。
南アの貧しい人達や、外国から出稼ぎにやって来た違法労働者などが住んでいるとのこと。

ソウェト内でも、貧富の格差が見て取れる。
ダーバンのタウンシップをガイドしてもらったこともあるが、そちらはこのように観光化されておらず本当のタウンシップを見ることが出来た印象だったのに対し(その様子は こちら)、我々が行った部分のソウェトはツーリスト用な場所とは言え、ずいぶん違うことに驚かされた。

ヨハネスブルグ中心部のビル群。
ヒルブロウタワーなどがあるが、今は犯罪の巣窟となっているエリア。。。

世界のダイアモンドを牛耳っている悪名高い?南アのデビアス社の建物は、ダイアモンドをカットしたかのような多面体の個性的な建物。

マンデラさんが息をひきとった最後の自宅は、高級住宅街にあった。

ソウェトではないが、左奥の砂山?は、1886年に金が発見されてからはゴールドラッシュに沸いた金鉱の跡。
掘って出た余計な土がこのような山となっていて、あちこちにある。
現在は掘られた穴に雨水がたまるなどし、地盤が緩くなって洪水が起きやすくなっている。
その周りにはタウンシップがあり、ここは日本人が多く住むサントンとヨハネスブルグの空港を結ぶ道路の横にも位置している。その為、その道路を通る時には、信号が赤でも停まるとスマッシュ&グラブ (窓ガラスを割って車の中の貴重品を奪う犯罪) が横行している為、スピードを調整するなどして赤信号で停まってしまわないよう、日本大使館からも注意喚起されているエリア。
バスコダガマが寄港したダーバンに比べ、ヨハネスブルグやその近郊は南アの近代史に深くかかわった場所が非常に多いなと。
タウンシップとは、アパルトヘイト時代の黒人隔離政策のこと。もともと黒人が住んでいた土地を奪われ、人々が ship された (送られた) ことからそのような名称となった。

アレクサンダータウンシップ
タウンシップの中でも一番古いもので、現在は各戸にソーラー発電なども設置されている。

画像ではわかりにくいが、南アで一番規模の大きな乗り合いタクシー乗り場。
延々と続くので、一体どうやって行先を間違わずに正しい乗り場に辿り着けるのか不思議なぐらい。隣国のジンバブエなどに行く長距離もある。
所謂 「ソウェト蜂起」 が起こった地には犠牲となったヘクター・ピーターソン少年の画像、碑、そして ヘクター・ピーターソン記念館 がある。

1976年、アパルトヘイト政策を敷く政府は、学校でオランダ系白人が話すアフリカーンズ語を授業に導入し黒人にも話すよう決定。
6月16日、黒人学生達はソウェト地区で抗議活動のデモを行ったが、警察が学生達に向けて銃を乱射。
死者176名、負傷者1139名、逮捕者1298名となり、この暴動がアパルトヘイト体制を終焉へと導くこととなった。
(詳しくは wikipedia を)
撃たれたヘクター・ピーターソン少年の遺体を運んでいる青年は、Mbuyisa Makhubu と言う青年なのだが、この写真が当時象徴的に取り上げられたことから、身の危険を感じて南アを脱出し、ボツワナ、そしてナイジェリアへと逃げたとのこと。

この場所が、デモをしていた学生と警察が衝突して、多数の死者が出た所。
現在、事件のあった6月16日は、南アでは 「Youth Day 青年の日」 として祭日となっている。

マンデラさんの家

軒下には、弾痕が未だ残っている。

マンデラさんはこの家に1943年に入居し、15年住んでいて、犬との写真が投獄される前の最後の写真。
収監から解放されて出て来た時の様子は右上の写真。その時は11日しかここには住んでいない。

若かりし頃はボクシングをしていて、その時のベルトなども展示されていた。
マンデラさんには最初の奥さんとの間に4人子供が居たが子供3人とは死別し離婚、2人目の奥さんとの間に子供が2人いたが1996年に離婚し、3人目は故モザンビーク大統領の未亡人。
面白いのは、このマンデラさんの元の家を博物館にするにあたり、元リビア首相のカダフィ大佐、先日亡くなったキューバのカストロ、そしてアメリカの女優ジェーン・フォンダが出資したのだとか!
そしてマンデラさんの家からほんの少し徒歩で移動した所に、同じくノーベル平和賞を受賞したデズモンド・ツツ大司教の家がある。

塀にはしっかりしたセキュリティもある大きな家。
今は親戚の人がいるとか。

この Vilakazi Str は、わずかな距離にノーベル平和賞受賞者を2名も出したと、今ではすっかり観光地化されていて、ここがタウンシップの中とは思えない。
外国人観光客のツアーバスが何台も停まり、オシャレなカフェまであり、お土産物屋が連なる。

観光に来た人の車なのか、お土産物屋の横には、ポルシェのカイエンが停まっていて、それを洗車していた。
タウンシップの中でポルシェだなんて、ただただビックリ!!

渋滞しているからと、左側の歩道の上を何台もの車が走って行くのは、この場所らしいと言えばらしいが。。。
1930年代に造られ、1970年代まで使われていた石炭による火力発電所が、今は隣にバーなどが併設され、バンジージャンプのメッカになっていた。


内部はがらんどう。

インド系の女性!!

この白人男性は自撮りカメラを片手に余裕!
Regina Mundi と言う教会へ。

マンデラさんを中心にしたステンドガラス。

黒い母子像の下には、マドンナの目がソウェトを始め
ヨハネスブルグを見ている。


今は綺麗なステンドグラスがはめられているが、ソウェト蜂起の時には大勢の市民が警察の発砲から逃れる為に教会に逃げ込んだ。
当時はステンドグラスではなく、画像右の色をつけたパネルがつけてあり、ピンク色の物は外から受けた弾痕、青の物は内から撃った為に開いた跡が残っている。


これまた驚いたのは、タウンシップ内には綺麗なバス専用道路、そしてバス亭がある。
全て中国資本によるものとのこと。

その横には所謂 「シャック」 と言われる違法に住んでいる人達のバラックが。
南アの貧しい人達や、外国から出稼ぎにやって来た違法労働者などが住んでいるとのこと。

ソウェト内でも、貧富の格差が見て取れる。
ダーバンのタウンシップをガイドしてもらったこともあるが、そちらはこのように観光化されておらず本当のタウンシップを見ることが出来た印象だったのに対し(その様子は こちら)、我々が行った部分のソウェトはツーリスト用な場所とは言え、ずいぶん違うことに驚かされた。

ヨハネスブルグ中心部のビル群。
ヒルブロウタワーなどがあるが、今は犯罪の巣窟となっているエリア。。。

世界のダイアモンドを牛耳っている悪名高い?南アのデビアス社の建物は、ダイアモンドをカットしたかのような多面体の個性的な建物。

マンデラさんが息をひきとった最後の自宅は、高級住宅街にあった。

ソウェトではないが、左奥の砂山?は、1886年に金が発見されてからはゴールドラッシュに沸いた金鉱の跡。
掘って出た余計な土がこのような山となっていて、あちこちにある。
現在は掘られた穴に雨水がたまるなどし、地盤が緩くなって洪水が起きやすくなっている。
その周りにはタウンシップがあり、ここは日本人が多く住むサントンとヨハネスブルグの空港を結ぶ道路の横にも位置している。その為、その道路を通る時には、信号が赤でも停まるとスマッシュ&グラブ (窓ガラスを割って車の中の貴重品を奪う犯罪) が横行している為、スピードを調整するなどして赤信号で停まってしまわないよう、日本大使館からも注意喚起されているエリア。
バスコダガマが寄港したダーバンに比べ、ヨハネスブルグやその近郊は南アの近代史に深くかかわった場所が非常に多いなと。
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