ルワンダの首都キガリの観光を。

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ホテルで朝食を。
ミルクティーのように見えるものは、「アフリカンティー」。ウガンダのホテルにもあったのだが、生姜の入ったミルクティーと言ったところで、チャイのようなイメージ。ここのは、たっぷりシナモンが入っていたので、シナモンミルクティーと言った感じ。
クロワッサンが美味しかった。やはりかつてフランス語圏の植民地だった所のパンは美味しい。

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この日もやはり整然と綺麗な街。

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ユニセフや、JAICA の入っているビル。

ルワンダ大虐殺時の実話を映画化した 「ホテル ルワンダ」 の舞台となった ホテル・ミル・コリンズ
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1000人以上の避難して来た人達をかくまった場所として有名になった。

手前の建物は未だ昔のままとのこと。
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交差点の要所要所にはカメラが。
日本やイギリスやアメリカでは良くあるカメラだが、アフリカにあると何だかビックリ。

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市庁舎

ベルギーピースキーパーズメモリアル Belgian Peacekeepers Memorial

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1994年4月7日にベルギーの国連平和維持軍の兵士10名が殺された場所を現在はメモリアルとしている。

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ルワンダの大虐殺については、wikipedia など色々と資料があるのでそれを読んで頂きたいが、大まかには、フツ族とツチ族との間に摩擦があり、1994年4月6日にルワンダのヒビャリマナ大統領とブルンジのンタリャミラ大統領が乗った飛行機が撃墜され両大統領が死亡。この事件が大虐殺ジェノサイドの引き金となった。翌日、首相邸宅を警護していた国際連合ルワンダ支援団のうちのベルギー小隊10名が武装解除の上にここに連行され、拷問を受けた後に殺された。

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建物の中も外も、とにかく物凄い数の銃弾の跡。

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遺族の人達が書いたもの。中央の💀マークの横には、当時のカナダの国連平和維持部隊の司令官であったロメオ・ダレール氏の名前 Dallaire も書かれている。

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亡くなったベルギー人10名を象徴した10本の柱には、それぞれの年齢分だけ、横に線が刻まれている。20数本といったところか。

このルワンダの大虐殺のみならず、世界で起こった虐殺についても展示してあった。そこには、ナチスドイツなどもあったが、東京裁判の様子も載っていた。


キガリ虐殺記念館 Kigali Genocide Memorial

人口における割合は、フツ族が84%、ツチ族が15%、トゥワ族が1%となっていたが、もともと民族のルーツは一緒と言われていて、諍いもなかった。
しかし、この地を植民地としたベルギーによって、背の高さ、顔かたち、頭蓋骨の大きさ、牛を10頭以上所有していたらツチ族、などと言うとんでもない決まりで、フツ族とツチ族に分けられた。
ベルギーは少数派ツチ族に肩入れしていたが、選挙などになると圧倒的人数のフツ族が勝つ為、ベルギーはフツ族に乗り換えた。1959年11月初めて衝突が起き、ツチ族が他国に逃げるなどし、90年や92年にも、ツチ族が殺される事件が起こっていた。
そして上記のように、フツ族の大統領の飛行機が撃墜されたことにより、フツ族がツチ族の仕業だとして、ツチ族のみならず穏健派のフツ族までもが殺され、わずか3カ月で50~100万人が殺され、首都キガリだけで、25万人が殺された。しかし、ベルギーの背後にはアフリカに於けるフランス語圏を確保しようとしたフランスが黒幕としていたとか・・・イメージ 14

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亡くなった方々の写真が所狭しと貼ってある。
家族ごと、村ごと、抹殺されてしまった場合も多く、今でも写真を募集しているとのこと。

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頭蓋骨なども、亡くなった人達のほんの一部として展示されている。マチェーテ(なたのような物)で切られたり、頭を鈍器で撲殺された人も。

フツ族もツチ族からの仕返しを恐れて逃げる人もおり、200万人が難民となり、ルワンダの人口の3分の2が家を失ったり家を捨てて逃げるなどしていた。

虐殺が行われた時に、キリスト教会なら襲ってこないだろうと大勢の人が村の教会などに逃げ込んだ。しかし、それは一カ所に固まっていた為により容易に殺される要因になってしまった。
一方、少数のイスラム教徒達は、ツチ族をかくまうなど助けた人も多かった。

後に、タンザニアのアルーシャで裁判が行われ、多くの過激思想のフツ族政治家などが有罪となり、現在の議会では、議員の6~7割をツチ族の女性議員が占めている。

何故、国連はすぐに虐殺をやめさせなかったのか?
国連上層部は (アナン事務総長含め) 民族間の争いごととし、ダレール司令官からの度重なる要請を無視していたのか?
同時期に起こった、ユーゴスラビア紛争への平和維持活動に注力していたから。
何故そちらばかりだったのか? ユーゴスラビアはヨーロッパの一部だったこと、そして白人達の虐殺だったのに対し、ルワンダは黒人達の虐殺。国連は白人の出来事をより我が事のように感じたとも言われている・・・

世界の虐殺と言うことで、カンボジア、ユーゴスラビア、エチオピアのヘレロ族などのことも挙げてあった。
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ヘレロ族の町には、昨年7月に行っていたのに、全く知らなかったのでビックリ。。。その様子は こちら
1904年のことだが、ナミビアに侵攻したドイツ軍が、ヘレロ族6万人(当時の全人口の80%)とナマクア族1万人(全人口の50%)を死に追いやった。

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亡くなった方々の名前を刻んだ壁。まだ亡くなった人達の詳細がわからず、空欄がたくさんある。

イヤフォンガイドがあるのでそれに従い順次見ていたら、時間がかかってしまったが、パワフルな展示だった。
ナチスドイツのダッハウと言う強制収容所に見学に行った時、泣いている人を何人も見かけたが、やはりこちらでも。人間の負の遺産として行く価値があるかと。


Afrika Bite なるレストランで昼食を。
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PRIMOのシトロン(レモン)味があったのでそれを(左)。
思ったよりも甘くなくてスッキリ。
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やはり、ウガンダで食べたお料理に似ている。このモンキーバナナは甘くて美味しかった。

遅めのお昼を済ませてしばしホテルで休憩。

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街の夜は明るい。ホテルのそばのロータリーもとても綺麗にライトアップされていた。

TASTE FOODS AND TAKE AWAY なるレストランで夕食を。
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バナナの葉でくるんで蒸したお料理のルウォンボを。中には、ナイルパーチと言う魚の干物をもどした物が入っていて、ナッツが一緒に煮こまれている。
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手前のご飯から時計回りに:
キャッサバ、スイートポテト、ヤムイモ、バナナ、ポショ(トウモロコシの粉をねったもの)、マトケ(バナナ)、ほうれん草
やはり炭水化物のオンパレード!

翌日は、いよいよルワンダ最後の日。夕方の便でケニアはナイロビに発つまでの間、郊外のジェノサイドメモリアルを訪れた。その様子は<17>で。