ルワンダ最後の日、つまりウガンダとルワンダを巡る旅行の最後の日。

ルワンダ国内には、200ものルワンダ大虐殺のメモリアルサイトがあるのだが、そのうち首都のキガリ虐殺記念館も含む6カ所が良く保存されている。前日にその記念館に行ったので、この日はキガリ郊外にある2カ所に連れて行ってもらうことにした。

NTARAMA GENOCIDE MEMORIAL CENTRE

イメージ 1
このメモリアルサイトに居るガイドさん (多分ツチ族) が、大虐殺が行われた1994年よりも前に一体どのような流れで虐殺が起こったのかを、丁寧に教えて下さった。

1931年にベルギーが侵攻した際、未だルワンダの王様は若かったので、カトリック教会の建設を認可した。
1950年代になって、ベルギーの統治からの独立の機運が高まって来た為に、ベルギーは彼らが敢えて選別したフツ族とツチ族を戦わせることで、反感を感じているベルギーへの国民の目を逸らさせた。
1959年にルワンダの王様が死去。病死とされているが、王様専属のお医者さんはベルギー人で、暗殺されたのではないか?とも言われている。そしてその後、弟が王に即位。ツチ族が襲われるようになり、この地はもともと森で誰も住んでいなかったので、逃れて来たツチ族が住むようになった。
1961~1968年に、ブルンジやタンザニアに逃れていたツチ族も襲われるようになる。
1973年、反ツチ族の軍人がクーデターを起こし、大勢を殺したり、職場や学校でもツチ族への差別が激化。
1980年代になり、ツチ族は難民として隣国へ逃れるようになり、ルワンダ側は彼らの帰還を許さなかった。
1991~93年 和平合意が結ばれたが、結局は実行されず。
1992年 この頃からツチ族を抹殺しようと、ツチ族の住むエリアを下見に来たり、ツチ族の名簿などが作成され始める。
1994年8月15日 ここで大虐殺が起こる。

もともとカトリックの教会で、司祭はここには常駐しておらず、近くの別の教会から兼務でやって来ていた。この周辺には、5900人のツチ族が住んでおり、3000人がこの教会に逃げ込み、周辺も含めると合計5000人が殺され、900人だけが生き残った。
虐殺は一日ではなく、何度もやって来ては生き残りを殺して行ったので、ツチ族の人はくぼみや沼地などにずっと何日間も隠れ潜んでいるしかなく、飢餓や悪い水のせいで亡くなった人達も居た。

イメージ 4

教会内部の座席はそのままにし、内部は亡くなった方々の骨や着ていた衣服や写真、日用品などが展示してある。

イメージ 2

イメージ 3
頭蓋骨の中には、槍のような物で頭部を刺され、その槍の刃先がささったままのものも。

イメージ 5
ここで亡くなった人達の衣服。子供服も多い。

イメージ 6
逃げ込んで来た人達は、まさかここが襲われるとは思っておらず、避難所のような所と考えていたので、調理器具や食器、調味料など生活必需品を家から持参して来ていた。
しかし、実際には、一軒一軒襲わずとも、このわずかな狭い場所を襲うことで、大勢を一度に殺せる絶好の場所となってしまった。

イメージ 7
日曜学校の建物。
画像にはないが、内部の壁には、子供の頭を壁に打ち付けて殺したシミが大きく残っていた。

イメージ 8
キッチン。
まず中に火が放たれ、壁を壊すことで壁が中の人達を押しつぶしたので、このキッチンでは誰も助からなかった。

イメージ 10
大虐殺は4月から7月4日までの100日間に及んで行われたので、毎年100日の間ともされるトーチ。

イメージ 9
教会内で殺された子供のお墓が教会のすぐ隣にある。
お父さんは生き残ったのだが、奥さんと6人の子供のうちの3人が殺され、いち早くここにお墓を作った為、集団埋葬の場所ではなく、今もそのままここにある。

イメージ 11
地下には広大な場所に、何層にも重ねられた棺が並んでおり、地下に入って見学することが出来る。
151の棺がある。昨年9月に完成したばかり。

イメージ 12
ガラス張りになっている上から棺を見たところ。ひとつの棺に一体ではなく、入るだけ入れてある。

イメージ 13
死者の名前を刻んだ壁。やはりここも、名前がわからない人が多い為、刻まれたお名前の数は少ない。

イメージ 14
裏手は綺麗な庭を造成しているところで、その対比が何とも切なかった。

イメージ 15
ジェノサイドメモリアルを後にすると、周囲の道は本当に綺麗。歩道と車道の間には植え込みがあり、街路樹もあって、まるで日本の街並みのよう。

イメージ 16
周辺の家並み。
今は○○族と言うことを公に言ってはいけないが、政府が建てたツチ族の人達の為の家とのこと。


NYAMATA GENOCIDE MEMORIAL CENTRE

カトリックの教会で、ここでは約1万人が殺された。
イメージ 17
逃げ込んだ人達が立てこもった為、外から手りゅう弾などが投げ込まれ、銃やマチェーテと言われるナタのような大きな刃物で殺された。
入口の黒い鉄製のゲートもその当時こじあけられたままの姿。
この入口の屋根は銃弾で穴がいっぱい開いている。
イメージ 18

イメージ 19
画像にはないが、祭壇の上に敷かれた布には未だ流血の跡が残っており、教会の天井は文字通り蜂の巣状態。とても卑近な非常識な表現だが、銃が明けた穴からの太陽光が内部を明るくし、満天の星空のようなイメージになっていて皮肉を感じた。殺された人のIDカードなども展示してある。そこにはフツ族なのかツチ族なのかが明記されている。
座席の上に山積みされた衣服は、この教会内で殺された人達が着ていたもの。倒れた大人の下敷きになっていた子供が数人助かっているとのこと。

イメージ 20
白人女性のお墓が教会の建物の横にあった。イタリア人の修道女のお墓で、大虐殺前から既にツチ族をかくまってあげるなどし、1992年3月にフランスのラジオとBBCに、ツチ族が一週間に500人以上殺された事実を伝え、政府を批判。すると同日に射殺された。現大統領によって、2010年にメダルを授与されている。

イメージ 21
ここの教会に隣接する地下に、500の棺があり、地下に入って見学することが出来る。

イメージ 22
ひとつの棺に200~300人分の遺骨が詰め込まれており、いくつかの棺の蓋がずらしてあって中を見ることが出来るが、本当にぎゅうぎゅうに詰められていた。

その地下の一番下にひとつだけ特別に展示されている棺があった(画像はない)。ひとりの女性の遺骨なのだが、レイプされた後、長い一本の槍で陰部から頭頂部まで串刺しにされて殺されている姿。。。残虐極まりない殺され方。。。

ルワンダ政府の推定によれば、84%のフツ、15%のツチ、1%のトゥワから構成された730万人の人口のうち、117万4000人が約100日間のジェノサイドで殺害されたという。これは、1日あたり1万人が、1時間あたり400人が、1分あたり7人が殺害されたに等しい数字、とのこと。。。

イメージ 23
今現在、近隣の町は、穏やかに見えるのだが、、、

イメージ 24
・・・と、いきなりの豪雨。雹まで混じっていた。

今のこの平穏は、独裁者による恐怖政治によるもの。学校にも秘密警察がおり、軍が警察の中に入ってスパイをしているなど、監視の目が非常に厳しい。また南アの兵士が訓練の為にルワンダにも駐留しているのだそう。

今回ルワンダに行く前に映画やドキュメンタリーを見たり、帰って来てからも少しネットで資料などを見たが、殺された方々の遺体の画像に驚かされた。ミイラはエジプトのカイロの考古学博物館で見たことがあるし、ホロコーストミュージアムでの虐殺画像や、殺されたばかりのご遺体などは戦争の報道写真で見たことがあったが、ここのご遺体の画像の中には、大勢が地面などに横たわって洋服を着てはいるものの、時間が経ってしまって半分ミイラ化したもの。ご遺体の回収さえ、フツ族が拒んで、野犬などが処理していたと聞く。。。虐殺が起こる前までは、一緒に働いたりしていた仲間が、いきなり殺し合う仲となってしまい、またその殺し方が残虐極まりない。プロパガンダなどで憎むことを植え付けられてしまったとも言うが、潜在的に人間が持つ残虐性なのか、殺さなければ仲間から自分が殺されると言う恐怖心からなのか。。。95%はキリスト教徒と言う国に於いて、このような事が起こるのであれば、宗教はいらないのではないか?と思ってしまったぐらい。。。

キガリの中心に戻り、ランチを。
イメージ 25

イメージ 26
イメージ 27
レストランの中でスナックが売っていたので食べてみることに。カバラガラと言う食べ物。バナナとベーキングパウダーとキャッサバを混ぜて焼いたもので、バナナの甘さがあり、見た目とは違って案外いける。

この日は、ルウォンボのビーフとチキンを。
イメージ 28

イメージ 30

イメージ 29
これがルワンダでの最後の食事。毎度似たような炭水化物だらけだが、最後だと思ってしっかり頂いた。

ルワンダの国際空港へ。
イメージ 31
飛行場のエリアに入る前に、一旦、荷物と共に車を降りて、台の上に荷物を置く。すると警察犬がやって来てクンクンとチェック。この時は空いていたので、さっさと終わったが、混み合うとここでやたらと時間がかかるとのこと。

少しチェックインまで時間があったので、併設のカフェでカプチーノとスパイスティーなるものを。
ここのスパイスティーは、びっくりするぐらいの甘い生姜味で、まるで駄菓子の生姜糖のよう。
イメージ 32

イメージ 33
3500ルワンダフラン=455円 結構お高い!

これでウガンダ・ルワンダ旅行も終了。次のドバイ旅行に向けてルワンダからケニア航空でケニアのナイロビ経由UAE(アラブ首長国連邦)のドバイに行く。。。はずだった。。。
今回の旅行では、ヨハネスブルグからウガンダに到着した時にロストバゲージに遭ってしまったので、念の為今回は小さな機内持ち込みキャリーバッグにお泊りセットをもっとしっかり詰め込んで臨んだ。
が、が、預入荷物のスーツケース一個を預けようとしたところ、一個23キロまでで29キロあるからダメだとカウンターの若い係員君。2人で一個のスーツケースなので、どの航空会社でもそのような事を言われたことはなかったのにと主張しても、頑として譲ってくれない。なら、超課金を払うからと言ったのだが、その支払い手続きのカウンターは別でそこは閉まっており、いつ係員が来るかわからないとのこと。仕方がないので、機内持ち込み予定だった小さなキャスターのお泊りグッズを機内持ち込みのリュックに入れられるだけ入れ、重すぎると言われたスーツケースの中身をキャスターに少し移して、スーツケースとキャスターの2個を預け入れ荷物とした。カウンターの係り員君もにっこり。全くもう・・・と思いつつ、定刻に飛行機に乗り込んだ。

イメージ 34
が、なかなか飛ばない。19:40発のKQ444便のはずが、給水システムトラブルとのこと。機長 (白いシャツの人) がタラップを降りて係り員と話し出す始末。給水がうまくいかないので、電源を落とすことにした、安全の為に一旦乗客は全員外で待機させたバスに乗り込んで待て、と。バスで待つこと20分。結局、給水はうまくいかないが、一日一便のこのフライトは前日もキャンセルになっているので、今日は何としても飛ばしたいから、トイレに行きたい人はペットボトルを渡すから申し出てくれ、ということで1時間45分遅れとなって21:25にようやく出発。
イメージ 35
機内食。
果たしてナイロビからのドバイへの乗り継ぎ便に間に合うだろうか???と危惧し、またいつ食べられるかわからないので、決して美味しいとは思えないパンも頑張って残さず食べた。

前日の便も、前々日の便も、ナイロビ発ドバイ行きのケニア航空は3時間程度出発が遅れていた。もしかしてこの日も遅れてくれているのではないか? 定刻出発予定でも、ドバイへも同じケニア航空だから予め連絡して乗換者を待っていてくれて、ナイロビ到着のゲートの所で我々の名前を持った係り員が乗換えの為に待っていてくれるのではないか? などと淡い期待を胸にしていたのだが、全く誰もおらず・・・ 
我々のナイロビ発ドバイ行きのフライトは、ナイロビ23:30発。しかし、我々のこのフライトは、23:40に到着。おまけにこの日に限って(?)定刻出発したばかりとのこと。ナイロビのホテルをケニア航空が用意するので、翌日の夜のフライトまで待てとの指示。
我々はウガンダ・ルワンダのビザを申請するに当たり、ケニアも網羅した東アフリカビザを持っていたので、他の乗り遅れた乗客に比べてさっさとケニアに入国出来たが、それでもあっちのカウンター、こっちのカウンター、はたまたそっちのカウンターと手続きに飛行場内を右往左往させられ、ホテルに到着したのが夜中の1時45分。そして勿論、我々の預けたスーツケースもキャスターもそのままで翌日のドバイまで手にすることは出来ないと言う、またロストバゲージ難民状態に陥ってしまった。。。
ルワンダからナイロビまでわずか1時間半ほどのフライト。さっさとペットボトルを配ってでも飛んでほしかった。まさか一度の旅行で二度もロストバゲージ状態に陥るとは・・・
前日のルワンダからナイロビへのフライトがキャンセルになり、ルワンダのキガリでまる1日足止めをくらい、この遅れたフライトのせいで、ナイロビから乗り換えてキリマンジャロに向かおうとしていて又ナイロビで一泊しないといけないおじさんが居た。彼のことを考えたら、我々は未だマシかなと思うしかなかった。

イメージ 36
やたらと、ナイロビの夜景が目に染みた・・・

(ナイロビからドバイへの旅行記は、ドバイ旅行記としてアップします。)