故マンデラさんは、3度結婚しているのだが (マンデラさんはコサ族で一夫一婦制)、2番目の奥さんが亡くなった。翌日の新聞はどの紙面も一面でその訃報を伝えていた。

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めったと他の新聞と一面が同じトピックになることのない、ビジネスデーも、ズールー語で書かれた新聞も。
因みに、「Hamba Kahle」 とはズールー語で 「さようなら」 を意味し、英語の新聞のヘッドラインにも多数書かれていた。

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そしてホテルでも半旗が挙げられていた。

このウィニー・マディキゼラ・マンデラさんは、黒人初めてのソーシャルワーカーで、マンデラ氏と結婚後2人の娘を設けたが、38年間の結婚生活のうち30年近くはマンデラ氏は投獄されたまま。彼女自身も反アパルトヘイト運動家となり活動。
彼女自身も投獄された経験があり、80年代には、黒人居住区のソウェトで密告を疑われた人の首に燃えたタイヤを巻き付ける 「ネックレス」 と言うリンチ行為を行う恐怖政治を主導したり、民兵の14歳の少年が誘拐され殺された事件などに関与したとして有罪になったが、罰金刑へと減刑された過去もあり、彼女の行為には賛否があったとのこと。しかし、支援者からは 「国民の母」 と言った存在に。
解放されたマンデラ氏とは1996年に離婚。それでも、彼女はマンデラ姓を名乗り続け、マンデラ氏の葬儀にも参列するなどしていた。

南ア人の知人曰く、彼女には色々と負な面もあるが、彼女の投獄された体験が彼女を強行派へと変えて行ったのではないか?と。これだけ多くの新聞紙面で追悼しているだけでも、改めて彼女の偉業や人気を実感。

ほぼ一年前の昨年3月30日には、同じく反アパルトヘイト活動家のカトラダ氏が亡くなっており(その様子は こちら)、アパルトヘイト撤廃の活動を担っていた人達が減って来ている。