日本に居る友人のひとりに、ミーアキャットを見たことがあるか?と聞かれた。
ミーアキャットはアンゴラ、ボツワナ、ナミビア、南アに棲息するのだが、あいにく未だ見たことがなかった。南アで見られる所を探したのだが、飛行機で移動しなければ見られないエリアばかりで、だったらいっそのこと隣国ナミビアで見たいなと。
ナミビアには、昨年6月末~7月初旬に11日かけて廻ったのだが、今回は連休を利用して4泊5日でミーアキャットを見るべく訪れることにした。
地図上にポイントされている所が目的地。
ダーバン 6:30発
SA528便
ヨハネスブルグ 7:35着
ヨハネスブルグ 9:30発
SA74便
ヴィンドック 11:25着
(南アと時差なし)
ヨハネスブルグの上空を。
ナミビアの荒涼とした大地。
前回は初めてのナミビアだったので、ドライバーさん兼ガイドさんに案内してもらったのだが、今回はレンタカーを借りて行くことに。
我々がお世話になった四駆君。驚いたことに、ナンバープレートがなんとGP!! GPとは、ヨハネスブルグやプレトリアのある南アのハウテン州 (Gauteng Province オランダ語やアフリカーンス語でGはハと発音する) の車と言うこと。ダーバンでもレンタカーだとこのGP番号を付けていることが多いのだが、まさか外国で南アのナンバープレートをそのまま使用してレンタカーとして貸し出しているとは!!
他のレンタカー会社の所を見ても、黄色いナミビアのナンバープレートを付けた車よりも白い南アのナンバーを付けている車がずらっと並んでいた。
空港から首都ヴィンドックまで約43キロ。30分ほどの道のりを行く。
バブーンが横切って行った。
以前にも泊まったヒルトンにチェックイン。
昨年6月末に増築工事をしていたヒルトンホテルは、少しはビルらしくなって来てはいたが、未だ未だ工事中。
しかし、アヴァニホテルの前のビルの外壁が真っ白に変わっていて綺麗になっていた。
あれれ?
ホテルの屋上のお気に入りだったバーの横のプールにおおいが。
街中を少しドライブ。
綺麗で活気のある街中だが、山羊さん達がドナドナされていく・・・
前は時間の都合で行けなかったレストランが多く建ち並ぶエリアで、日本大使館発見!
凄い建物の趣味かなと・・・
ミーアキャットの居るカラハリ砂漠には、首都ヴィンドックから約250キロ、車で3時間弱かかるので、この日はまず手始めに、ヴィンドックから西に位置するゲームリザーブ Daan Viljoen Game Reserve に行くべく車を走らせた。その小高いゲームリザーブから東の方を振り返って見てみるとこんな感じ。
盆地となっているヴィンドックの中心部。
そのビル群よりも手前(西側)には、小さな家々と言うか、バラックがギューッと建ち並んでいる。
南アでは、アパルトヘイト時代に政府が黒人などに住む所を限らせたタウンシップと言われる所よりも、もっと貧困層が (違法な場合もある) 住んでいるこのようなバラックを 「シャック」 と言うのだが、南アのシャックよりもここは一軒が大きめで隣との間隔も広く、住環境としては未だ良いのではないか?などと思っていたところ・・・
実はこれがナミビアのタウンシップ!
アパルトヘイト撤廃後の現在の南アのタウンシップは、電気はもとより水道も引かれ、お家賃も結構する。
それに比べてナミビアのタウンシップは南アの 「シャック」 だった。
Otjomuise と言うタウンシップで、よく見ると、トタンの家々の空いた屋外のスペースで煮炊きでもしていると思われる女性の服装は、ヘレロ族の人のようだった。
首都ヴィンドック Winhoek と、この Otjomuise との間に Khomasdal と言う地区があり、そこはカラード (白人と黒人の血をひいている人) の為の場所。
さらに奥 (北) には、Katutura と言われるタウンシップがあるのだそう。
ナミビアのタウンシップは、1950年代に、国連の指示によってアパルトヘイトを行っていた南アの委任統治下にあったナミビア政府が、もともとヴィンドックの中心に近い場所に住んでいた黒人達をその場所から強制的に8キロ北の場所に移住させたのが発端。
Katuturaとは、ヘレロ語で「人々が住みたがらない場所」と言う意味なのだそう。
以前よりも一軒の面積が狭くなり、庭を造ることは禁止され、新しい土地の借地料を行政に払わなければならず、以前であればヴィンドックの町の中心まで歩いて行けたところがバスなどを使って仕事に通わざるを得なくなった。
その為、住民が抗議活動をしたのだが、1959年12月10日に警察がデモ隊に発砲し、11名が死亡、44名が負傷と言う事件となった。後に、12月10日はナミビアの人権の日として祭日となった。
1962年当時の民族の内訳は、もともとこの辺りに住んでいたオヴァンボ族約3000人、ダマラ族2366人、カラード1257人、ナマ族614人、ヘレロ族468人、オヴァンバンデル族71人、そのほか1094人となっていた。
現在でも、ナミビアの中で最も貧しい場所のひとつで、犯罪などの面で危険なエリアでもある。
前回のナミビア訪問時には、国立博物館に行った際にちらっと強制移住の話は聞いたが、ここにも南アのアパルトヘイトの爪痕がしっかりあったとは。。。
ミーアキャットはアンゴラ、ボツワナ、ナミビア、南アに棲息するのだが、あいにく未だ見たことがなかった。南アで見られる所を探したのだが、飛行機で移動しなければ見られないエリアばかりで、だったらいっそのこと隣国ナミビアで見たいなと。
ナミビアには、昨年6月末~7月初旬に11日かけて廻ったのだが、今回は連休を利用して4泊5日でミーアキャットを見るべく訪れることにした。
地図上にポイントされている所が目的地。
ダーバン 6:30発
SA528便
ヨハネスブルグ 7:35着
ヨハネスブルグ 9:30発
SA74便
ヴィンドック 11:25着
(南アと時差なし)
ヨハネスブルグの上空を。
ナミビアの荒涼とした大地。
前回は初めてのナミビアだったので、ドライバーさん兼ガイドさんに案内してもらったのだが、今回はレンタカーを借りて行くことに。
我々がお世話になった四駆君。驚いたことに、ナンバープレートがなんとGP!! GPとは、ヨハネスブルグやプレトリアのある南アのハウテン州 (Gauteng Province オランダ語やアフリカーンス語でGはハと発音する) の車と言うこと。ダーバンでもレンタカーだとこのGP番号を付けていることが多いのだが、まさか外国で南アのナンバープレートをそのまま使用してレンタカーとして貸し出しているとは!!
他のレンタカー会社の所を見ても、黄色いナミビアのナンバープレートを付けた車よりも白い南アのナンバーを付けている車がずらっと並んでいた。
空港から首都ヴィンドックまで約43キロ。30分ほどの道のりを行く。
バブーンが横切って行った。
以前にも泊まったヒルトンにチェックイン。
昨年6月末に増築工事をしていたヒルトンホテルは、少しはビルらしくなって来てはいたが、未だ未だ工事中。
しかし、アヴァニホテルの前のビルの外壁が真っ白に変わっていて綺麗になっていた。
あれれ?
ホテルの屋上のお気に入りだったバーの横のプールにおおいが。
街中を少しドライブ。
綺麗で活気のある街中だが、山羊さん達がドナドナされていく・・・
前は時間の都合で行けなかったレストランが多く建ち並ぶエリアで、日本大使館発見!
凄い建物の趣味かなと・・・
ミーアキャットの居るカラハリ砂漠には、首都ヴィンドックから約250キロ、車で3時間弱かかるので、この日はまず手始めに、ヴィンドックから西に位置するゲームリザーブ Daan Viljoen Game Reserve に行くべく車を走らせた。その小高いゲームリザーブから東の方を振り返って見てみるとこんな感じ。
盆地となっているヴィンドックの中心部。
そのビル群よりも手前(西側)には、小さな家々と言うか、バラックがギューッと建ち並んでいる。
南アでは、アパルトヘイト時代に政府が黒人などに住む所を限らせたタウンシップと言われる所よりも、もっと貧困層が (違法な場合もある) 住んでいるこのようなバラックを 「シャック」 と言うのだが、南アのシャックよりもここは一軒が大きめで隣との間隔も広く、住環境としては未だ良いのではないか?などと思っていたところ・・・
実はこれがナミビアのタウンシップ!
アパルトヘイト撤廃後の現在の南アのタウンシップは、電気はもとより水道も引かれ、お家賃も結構する。
それに比べてナミビアのタウンシップは南アの 「シャック」 だった。
Otjomuise と言うタウンシップで、よく見ると、トタンの家々の空いた屋外のスペースで煮炊きでもしていると思われる女性の服装は、ヘレロ族の人のようだった。
首都ヴィンドック Winhoek と、この Otjomuise との間に Khomasdal と言う地区があり、そこはカラード (白人と黒人の血をひいている人) の為の場所。
さらに奥 (北) には、Katutura と言われるタウンシップがあるのだそう。
ナミビアのタウンシップは、1950年代に、国連の指示によってアパルトヘイトを行っていた南アの委任統治下にあったナミビア政府が、もともとヴィンドックの中心に近い場所に住んでいた黒人達をその場所から強制的に8キロ北の場所に移住させたのが発端。
Katuturaとは、ヘレロ語で「人々が住みたがらない場所」と言う意味なのだそう。
以前よりも一軒の面積が狭くなり、庭を造ることは禁止され、新しい土地の借地料を行政に払わなければならず、以前であればヴィンドックの町の中心まで歩いて行けたところがバスなどを使って仕事に通わざるを得なくなった。
その為、住民が抗議活動をしたのだが、1959年12月10日に警察がデモ隊に発砲し、11名が死亡、44名が負傷と言う事件となった。後に、12月10日はナミビアの人権の日として祭日となった。
1962年当時の民族の内訳は、もともとこの辺りに住んでいたオヴァンボ族約3000人、ダマラ族2366人、カラード1257人、ナマ族614人、ヘレロ族468人、オヴァンバンデル族71人、そのほか1094人となっていた。
現在でも、ナミビアの中で最も貧しい場所のひとつで、犯罪などの面で危険なエリアでもある。
前回のナミビア訪問時には、国立博物館に行った際にちらっと強制移住の話は聞いたが、ここにも南アのアパルトヘイトの爪痕がしっかりあったとは。。。
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