モーリシャスで迎えた朝。

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まず、首都ポート・ルイスの北側の山々の反対側にあるモカ・タウンと言う小さな町へ。
コーヒーのモカが採れる所でもある。クレオールハウスのユーレカ Eureka へ。

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109ものドアと窓のあるクレオールハウスで、フランスの植民地時代の家。
島内でも有数の豪邸で、19世紀に英国とフランスの貴族がそれぞれ所有していた時期もある。





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フランス出身のノーベル賞作家であるジャン=マリ・ギュスターヴ・ル・クレジオの祖先の家でもあるのだそう。


黒檀を使用した家具などが。





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外よりも中の方が涼しい造りとなっている。









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古伊万里が多数!!

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セーシェルの世界遺産にもなっているヴァレ・ド・メ自然保護区にあるココ・デ・メールと言うこの独特な形のフタゴヤシ(オオミヤシ)まで置いてあった。1個が20キロほどもあり、かつては金と同じぐらいの価格で取引されていたのだそう。


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モカの滝へ。











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コウラウン
Red-whiskered bulbul
/ Crested bulbul
Pycnonotus jocosus

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ポート・ルイスに戻って、中心部を観光。

アプラヴァシ・ガート Aapravasi Ghat

ユネスコの世界遺産にも登録されている。イギリス政府が、アフリカ人奴隷に代わる労働力として、各地から契約移民の検疫所。
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立て替えられ、今は綺麗な博物館になっている。








別名、クーリーガート Coolie Ghat。
クーリーとは、苦力(クーリー、タミル語: கூலி、英: coolie)
19世紀から20世紀初頭にかけての、中国人・インド人を中心とするアジア系の移民、もしくは出稼ぎの労働者。
主に大英帝国の植民地、旧植民地であるアメリカ合衆国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、ペルー、南アフリカ共和国、スリランカ、マレーシア、ハワイ、フィジー、モーリシャス、レユニオン島、西インド諸島、香港、シンガポール等で低賃金で過酷な労働を強いられた。 苦力の移民は 「客頭」 などのブローカー結社により組織的に行われ、こうした労働力を売買する商行為は 「苦力貿易」 と呼ばれた。
1830年代から1910までの間、462000名以上の人々がモーリシャスにやって来た。
当時のイギリス植民地下でのサトウキビのプランテーションにおいて、労働力として契約をした (いわゆる年季奉公状態)、中国、コロモ諸島、インド、マダガスカル、モザンビーク、東南アジア、イエメンの人々。
契約期間が終わると、3分の2の人達がモーリシャスを永住の地に選び、残る3分の1の人々は本国に帰るなり他の地へと移住した。現在のモーリシャスの約70%の人々がこれら労働力としてやって来た人達の子孫。

労働力としてやって来た契約移民の97.5%以上がインドからやって来ており、ボンベイ、カルカッタ、マドラスから。5~8週間かかる航海を経てやって来たが、1860年代からは航海技術も進み、3~5週間で来られるようになった。

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この荷車は、サトウキビ等を乗せ、畑からサトウキビ工場まで、そして砂糖袋をポートルイスの港まで運ぶのに使用された。サトウキビ産業は拡大し、1863年までには4500台もの荷車が使われた。
1864年からは列車が使われるようになった。






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他の植民地化のプランテーションと同様、奴隷ではないものの、出稼ぎ労働者の状況は厳しかった。給金がきちんと定期に支払われなかったり、酷い住環境や乏しい配給や医療ケアな上、許可なく現場から離れると罰が与えられた。


1960年代の出稼ぎ労働者の家を 
再現したもの。トイレ・お風呂・洗濯場もない。



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1860~1885年の間には、出稼ぎ労働者達は雇用者に110940件もの不平を提示したが、約8万の不平は賃金の未払いや遅延などによるものだった。

1865年からは、ひとりの労働者に2枚の写真を撮り、一枚は彼らの移民証に、もう一枚はアプラヴァシ・ガートで保管された。




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このアプラヴァシ・ガートは、やって来た出稼ぎ労働者を2日間とめおく施設なのだが、1849年から続々と出稼ぎ労働者がやって来た為、お手洗いなどの基本的施設を設置するため、イギリス植民地政府は何度も拡大を余技なくされた。ピーク時には、1000人以上の男女や子供がここに留め置かれた。
彼らはそのまま床に寝なければならなかった。


当時のお手洗い








もともと、1598年からオランダ領となり、1715年からはフランス領、1810年12月から英国領となったモーリシャス。英国がアヘン戦争後に香港を手に入れ植民地としたので、その時に中国人をモーリシャスまで連れて来て、黒檀の栽培などにも従事させていた為、とにかく町行く人達は黒人ではなく、インド系や中国系やミックスの人が多い。
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建物もさまざま。




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横浜中華街にもある 
関帝廟がここにも!



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1883~1889年のモーリシャス総督である
サー・ジョン・ポープ・ヘネシーの像


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ウオーターフロント



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首相官邸。
写真を撮っても良いそうで、
左にある看板はスピードカメラが 
あるよとの警告のみ。






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郵便局







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この煙突のある風景は、我々が住んでいる 
近所と全く変わらない。
聞くと、昔のサトウキビ工場の煙突とのこと。
なるほど、納得!





お昼を食べに少し郊外のレストランへ。
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白人夫妻がオーナーで、
何台ものクラシックカーが所狭しと並んでいた。






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ウエルカムドリンク

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この真ん中の緑のものが、
青唐辛子でとにかく辛い!

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お魚はマーリン。カジキとのこと。
お米、豆、カボチャ系の芋と、
炭水化物が多い💦


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レモン、グアバ、パッションフルーツのアイスクリーム。
とにかく暑いので、すっとして美味しかった。


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敷地には、ライチがなっていた。








この後も、引き続きポート・ルイスの観光を。その様子は<10>で。