ちょうど10年前に、NYから友人が遊びに来た時に事前参観予約をして皇居を一緒に見学したのだが(その様子は こちら)、その時以来の皇居内。今回は、いつでも入れる皇居東御苑に行ってみることに。
皇居の東側に付属している広さ約21ヘクタールの庭園。かつての江戸城の本丸・二の丸・三の丸に位置する。本丸には江戸幕府将軍の住居である本丸御殿や天守閣があり、城の中枢であった。 1968年から一般に公開されている。「江戸」は入江の入り口を意味する言葉だとされていて、かつて日比谷まで入江が迫っており、何本も川が流れていた。12世紀には江戸氏と言う有力武士が館を構え、室町時代後期には、太田道灌が江戸城を建てた。徳川時代より前の江戸では、まさかここまで海が迫っているとは知らなかった💦
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江戸城(画像をクリックすると大きくなります。)現在の地図と同様にする為、ちょっと未だ傾きが異なるが、地図の上を北にするため地図は上下を逆にしている。
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現在の東御苑の位置
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皇居外苑 暖かい日だったので、ベンチで思い思いにのんびりしている人や家族連れなどが。
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桔梗門(内桜田門)江戸城本丸南口の通用門。門の警護には6~7万石の譜代大名があたっていた。門は慶長19年(1614年)に造られ、桔梗濠沿いの石垣は元和6年(1620年)に増築された。現在も手前の高麗門と右の渡櫓門からなる枡形門が残っている。
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桜田巽櫓
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大手門から入る。大手町のビル群がすぐそばに。大手門は江戸城の正門で、諸大名がこの門から登城した。大小2つの門に囲まれた枡形は、侵入する敵を阻止・攻撃しやすい構造。大きい方の門は太平洋戦争の空襲で焼失し、昭和42年(1967年)に復元。
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大手三の門跡・同心番所 本丸への入り口。当時は門の手前に濠があり橋がかかっていた。番所とは、警備詰所のことで、江戸城にあった番所のうち、この同心番所・百人番所・大番所が残っている。下級武士である同心の番所の屋根瓦には、葵や菊の紋がある。
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百人番所 長さ45メートルもあり、甲賀組・伊賀組・根来組・二十五騎組と言う鉄砲百人組が昼夜警備にあたっていた。各組は、20人の与力と100人の同心で構成されていた。
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中之門跡 本丸に入る最初の門で、当時はこの石垣の上に櫓があった。江戸城内でも最大級の35トン前後もの巨石が使われている。石垣解体修理に伴い、遺物も出土し、鉄製や銅製の敷金や銅製の契り(チキリ)と言う連結する物が使われていたり、石垣の裏側では大鎹(かすがい)も出土したとのこと。
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中雀門跡 重い鎧を身に付けた武士が駆け上がって来ることが出来ないように、坂になっている。黒い石垣の石は、文久3年(1863年)の本丸の火災で石も焼けてしまった為。
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富士見櫓 高さ16メートル。櫓の下の石垣の高さは15メートル。櫓は城の隅で防御施設の役割をもっており、江戸城には多くの櫓があったが、現存する櫓は富士見櫓・伏見櫓・巽櫓の3つのみ。3重の屋根を持つ櫓としては、富士見櫓が唯一現存しているもので、どの方角から見ても美しく「八方正面の櫓」とも呼ばれていた。各階の窓は鉄砲や矢で攻め手を攻撃する為の拠点で、一階の出窓の床には石落としとして開けられるようになっているものの、江戸城は一度も敵に攻められたことがない。明暦3年(1657年)の大火で天守も富士見櫓も消失。2年後に富士見櫓は再建されるも、天守は再建されず、その後は富士見櫓が天守の代用を果たした。当時は、将軍がここから富士山や品川の海を眺めていたとのこと。富士見櫓から直線距離で富士山までは約100キロ。大正12年(1923年)の関東大震災後の修理や、昭和41年・42年(1966~7年)の修理が行われている。
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本丸大芝生 約13万平方メートルの広さ。以前は天守のあった天守台まで行けたのに(画像の一番奥の部分)、フェンスでこの奥には一切入れず!!何故?と思っていたら、令和になり、大嘗祭を行う大嘗宮がここに建てられ、今は建物は撤去されたが、未だ工事が全て終わっていない為に立ち入り禁止になっていた💦
天守が焼けた後の江戸時代には、33000平方メートルの御殿がここにあったが、何度も火事に遭い、その度に再建。しかし文久3年(1863年)で焼失した後は再建されず。呉竹寮と言う建物が造られ、昭和7年~39年まで、皇室の人が住んでいた。
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あせび、まんさく、緋寒桜などが咲いていて、鳥さんもやって来ていた。
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二の丸庭園 江戸城には、二の丸にも御殿があり庭園もあったが、建物は消失。昭和43年(1968年)になってから18世紀半ば頃の地図を元に再現された。
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二の丸池には、ヒレナガニシキゴイなる鯉がいる。現在の上皇様が発案し、インドネシアのヒレナガゴイと日本の錦鯉を交配して創られた鯉なのだそう!!
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諏訪の茶屋 明治天皇により、明治45年(1912年)に建てられたもの。明治時代の数寄屋建築で西の吹上御苑から移築。
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平川門 御殿に努めていた女性達の通用門。城内で罪人や死人が出た時に出された門。
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梅林坂 太田道灌が文明10年(1478年)に菅原道真を祀る天神社を建て、梅を植えたことから。
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天守台 ぐるっと廻りこむと、 やはり入れないが天守台の近くに行くことが出来た。江戸時代、本丸には3度天守が建てられた。寛永15年(1638年)3代将軍徳川家光が建てた天守は5層の屋根を持つ58メートルもの高さがあったが、19年後の1657年に大火で焼失。天守台だけは再建されたが、家綱の時には平和な時代に天守は不要とされ、天守は再建されず江戸時代が終わった。天守台は大小2つ。小天守台には井戸もあり、大天守台は南北46メートル、東西42メートル、高さは10メートル。
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北詰橋門 江戸時代には、本丸の裏を守る為、橋は跳ね上げられるようになっており、石垣の高さは約18メートルもある。
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吹上御所の入り口
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田安門 武道館が門ごしに見える。北の丸北部に位置する枡形門で、高麗門(小さい方)の扉釣金具に残る刻銘から寛永13年に建てられたものと考えられている。昭和36~41年度に修理復旧整備が施されたが、田安門は江戸城の総構完成当時に遡る現存唯一の建物。
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周囲は通っていても、じっくり見たことがなかったので面白かった。いつもなら大型バスがたくさん停まっていて大勢の外国人観光客が多い辺りも、とても静かで良かった。新型コロナウイルスの為に、三の丸尚蔵館の宝物などを見学することは出来なかったのは残念。機会があったらまた足を運んでみたい。