湯河原温泉に行くにあたり、久しぶりに江の島や小田原を経由して行くことにした。
江の島
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茅ヶ崎 雲が広がっていたので、富士山があいにく見えなかったと思ったら、辛うじて右奥の白い部分が富士山の山麓。山頂と麓は雲で隠れているが、中腹の雪の白い部分だけが見えていた。
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小田原城
以前に小田原には何度も行っていたのだが、小田原城には訪れていなかったので行ってみることに。
大森頼春により応永24年(1417年)に築城された。主な城主は、後北条氏、阿部氏、稲葉氏、大久保氏。豊臣秀吉の小田原攻めに備えて築造された城下町を囲む延長9キロメートルの総構は最大。幕末まで関東地方の防御の要塞となる。廃城年は明治4年(1871年)。
隅櫓二の丸
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馬出門(うまだしもん)江戸時代初期から存在したと考えられ、寛文12年(1672年)に現在の姿となった。平成21年修復。
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銅門(あかがねもん)
銅門は、渡櫓門(わたりやぐらもん)、内仕切門(うちじきりもん)と土塀で周囲を囲む枡形門(ますがたもん)。寛永10年(1632年)頃に稲葉氏によって最初に造られ、震災などで何度か建替えや修復がなされたが、宝永2年(1705年)頃に造られた銅門は明治維新の廃城により明治5年に解体された。銅門の名前は、扉の飾り金具に銅を使用していたことから。平成9年に復元。
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特別拝観として、銅門の上に上がれた。梁には松、柱と扉にはヒノキが使われている。「小田原評定」のエピソードを模した人形が置かれていた。

小田原評定とは :

戦国大名の後北条氏における重臣会議のこと。月2回開かれ、諸事を決した行政機構である。結論が出るまで意見が分裂したと言われている通説である。この故事から、現在では小田原評定という言葉は「いつになっても結論の出ない会議や相談」という意味での比喩表現として使われる。

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石落としまで造られていたが、実際には重たい石を門の上まで上げることはせず、石の代わりに糞尿などをこの場所から下に撒いたり、銃を使うなどしていたとのこと。
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銅門の土塀模型
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銅門を超えて、いよいよ本丸へ。
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常盤木門(ときわぎもん)
江戸時代初期から設けられ、元禄16年(1703年)の大地震で崩壊した後、宝永3年(1706年)に多門櫓と渡り櫓から構成される枡形門形式で再建されたが、明治3年の廃城まであったとのこと。現在の常盤木門は、昭和46年(1971年)に復元されたが、昭和の復元はずいぶんアバウトだったそうで、以前の物に忠実に平成になって復元された銅門とは違うとのこと。
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屋根瓦には、葵の紋がずらっと入っており、本丸は将軍が来た時に使う為、城主ですら畏れ多いと言うことでこの門を通らずに裏門から本丸に入ったとのこと。
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寒緋桜が綺麗に咲いていた。寒緋桜と言えば、名古屋市内の街路樹で楽しめたことを思い出した。(その様子は こちら
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天守閣へ。
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お城の天守閣の高さベスト10のうち、小田原城は7位。因みに、そのベストテンは:
大阪城 41.5メートル (その様子は こちら
名古屋城 36.1メートル (その様子は こちら
島原城 33メートル
熊本城 32.5メートル (その様子は こちら
姫路城 31.5メートル (姫路城には改修工事以前に行ったが画像はない。)
小倉城 28.7メートル
小田原城 27.2メートル
広島城 26.6メートル
福山城 26.3メートル
若松城 25.1メートル

小田原城の本丸は、東西約150メートル、南北約114メートル。西端に天守台、中央に本丸御殿があった。本丸御殿は他の城では藩主が住むが、小田原城では徳川将軍家の宿所としての役割があった。江戸時代までは「殿主」「殿守」とされ、「天守閣」と呼ばれるようになったのは明治時代から。
城内に入る所には・・・
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出土した三ツ葉葵紋瓦いろいろ。
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とても綺麗な両面に描かれたふすま絵があったのだが、ガラスが反射してうまく撮れない💦
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昭和35年(1960年)に鉄筋コンクリート造で復興。昭和31年の写真には、天守閣に観覧車が!
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天守の最上階には、江戸時代の天守に祀られていたとされる摩利支天像などの場所を再現してあった。摩利支天は、武士の間であつく信仰されていたもので、小田原城天守の物は三面六臂(3つの顔と6本の腕)で、猪に乗る姿となっており、天守の形をした厨子に納められていた。江戸時代の天守には、摩利支天を含む天守七尊と言われる仏像が安置されていたが、廃城時に持ち出され現在は永久寺に安置されていた。
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天守型厨子の年代は不詳。一層部分は観音開きの扉があり、内部は金箔が貼られている。永久寺にあったものが、昭和35年の天守閣復興時に摩利支天像と共に天守閣に戻ってきた。
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天守閣からの眺め。
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歴史の事も全く疎いので良くわからなかったのだが、明治になっての廃城は、実に残念な政策だったなと。
この後、少し城下を散策することに。その様子は追って。