西洋美術館に来ている「ロンドン・ナショナル・ギャラリー展」<1> からの続き。

5 スペイン絵画の発見

スペイン絵画は17世紀当時は、海外では有名ではなかった。
スペインに進行していたナポレオン軍を追い出すべく、1808~14年スペインの独立戦争(半島戦争)時に、イギリス軍がスペインに援軍としてやって来て、ナポレオン軍とスペイン・イギリス連合軍が戦った。以降、イギリスがスペインの画家を知ることとなる。スペインはカトリック、イギリスはプロテスタントでもともと仲良くなかったのだが、イギリスがスペイン絵画を世界に広めることとなる。

フランシスコ・デ・ゴヤ「ウェリントン侯爵」 1812-14年
フランシスコ・デ・ゴヤ 「ウェリントン公爵」 1812-14年
ナポレオン軍を打ち破って公爵となった。軍人の肖像画は基本的には功績を示さなければならないが、この絵は凜々しさよりも疲れた表情。ゴヤは、被写体の苦労などを表わしたかった。ウェリントンはこの絵を家族にあげてしまったので、気に入っていなかったのではないか?と。
この絵がアメリカに買われそうになった為、イギリス側があわてて高額で買いつけ、1961年にナショナルギャラリーに展示されたが、19日後に盗まれた。未だ見つかっていない1962年、映画007シリーズ劇場第一作の「007 ドクター・ノオ」が公開された時、ドクター・ノオの部屋にこの絵がイーゼルにかけられていた。というジョークを映画にしていた。
フランシスコ・デ・ゴヤ
1965年に犯人が名乗り出て絵は返却された。犯人は年金生活のバスの運転手だったが、テレビの受信料を払うことに疑問を持っていたところ、この絵が高額でイギリス政府が買ったことがテレビで報道され、国に支払うお金があるなら受信料をただにしろと。犯人は、絵を返すかわりに無罪と受信料タダを交換条件に要求したが、絵は返って来たが額縁は返って来なかったので、額縁を盗んだ罪にだけ問われると言う恩赦となった。犯人は、ナショナルギャラリーの人と仲良くなり、朝は警戒がゆるくなると言うことを聞きつけてトイレの窓から侵入し盗んだとのこと。

エル・グレコ「神殿から商人を追い払うキリスト」 1600年
エル・グレコ「神殿から商人を追い払うキリスト」 1600年

ディエゴ・ベラスケス「マルタとマリアの家のキリスト」 1618年頃
ディエゴ・ベラスケス「マルタとマリアの家のキリスト」 1618年頃
セビーリャの画家。24歳で宮廷画家になるが、この絵はその前の20歳頃の作品。このような絵を「ボデゴン」(ボッデガ=酒蔵から発生した)厨房画と呼ばれる。アリオリソース(にんにく&オリーブオイル&卵)を作っているのではないか? 奥の絵?窓からの景色?は、キリスト、妹のマリア、姉のマルタが描かれている。姉マルタはもてなす準備で忙しく、妹マリアは説教を聞いていて姉を手伝わないので、マルタはキリストに妹も手伝うように言ってくれと言ったが、キリストはマリアも大事な仕事をしていると返答。この逸話から、マリアは観想・祈り、マルタは労働・奉仕を示す。ベラスケスの絵では、老婆が指さしていて、この絵から教訓を得なさいと言っているようだが、マリアかマルタかどちらを示しているのか? 両方をやれと言っているのではないか?と。

n-1434-00-000016-hd
ルカ・ジョルダーノ「ベラスケス礼賛」1692-1700年頃
300

ベラスケスを信奉していたことから、ベラスケスの「ラス・メニーナス」をオマージュした作品。ベラスケス自身が奥の出入り口に描かれているのと同様、ジョルダーノもこの絵の右下に自画像を配した。













全画面キャプチャ 20200710 91119
バルトロメ・エステバン・ムリーリョ「幼い洗礼者 聖ヨハネと子羊」1660-65年
存命中からイギリスで有名なスペイン人画家で、19世紀末までスペインの画家と言えばムリーリョと言われていた。ただスペインでは、彼の代表作として天使がたくさんいる絵など9割ぐらいは宗教画だった。
聖ヨハネと言う聖人を少年の姿で表わす新しい表現方法で、子羊は人類の罪をあがなうキリストを表わし、足下にある紙片には「見よ!神の子羊」と書かれている。以前は聖ヨハネは大人として描かれていたが、17世紀になると少年として描かれるようになる先駆的な絵。カトリックをベースにした絵とは言え、少年の愛らしい絵画はイギリスで好まれた。
また、額縁は17世紀のスペインの額を復元したもの。現在、17世紀の絵画などの額縁は殆ど使われていないが、ロンドン・ナショナル・ギャラリーは、描かれた絵画と同じ時代の額に合わせるよう復元することを早い時期から重んじているとのこと。

2
バルトロメ・エステバン・ムリーリョ「窓枠に身を乗り出した農民の少年」 1675-80年頃
一方、海外では、貧しさを強調しないで子供を可愛く描いた作品などが人気を博した。


6 風景画とピクチャレスク

18世紀になって、「ピクチャレスク=絵になる」光景を描くようになった。17世紀の大陸(イタリアやオランダ)の風景画が18世紀のイギリスの風景画に影響を与えたが、産業革命を経て、田園風景も変わってしまったことも理想の風景を求めた一因。光と陰、平和と山、水と森などのコントラストを含めたのどかな田園風景が好まれ、イングリッシュガーデンなどと言った自然の姿に手を入れていく流れとなる。

クロード・ロラン「海港」1644
クロード・ロラン「海港」1644年
フランス・ロレーヌ地方出身のフランス画家だが、イタリアで活躍。ピクチャレスクの元祖。空想の風景画でもあり、理想的な美しい風景や空気感を描いた画家。彼の画風の典型的なものとして、水平線近くにある太陽を描くことでの幻想的なノスタルジックを表わしている。
1824年のロンドン・ナショナル・ギャラリーの開館に向けて、収集家のアーガスタインから取得した38点のうちのひとつ。

picture_pc_5bc45f075b6c38aa3484f1247578a579
トマス・ゲインズバラ「水飲み場」1777年以前
ゲインズバラは肖像画家でもあったが、風景画も描いていた。具体的な場所ではなく、理想の風景(アルカディア・桃源郷のよう)を表現している。

1
ジョン・コンスタブル「コルオートン・ホールのレノルズ記念碑」1833-36年
ミケランジェロとラファエロの胸像がそれぞれ描かれており、古典美術への畏敬の念が示されている。

3
ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー 「ポリュフェモスを嘲るオデュッセウス」1829年
遅れていたイギリスの絵画が、ターナーの出現により最先端となった。低い水平線からの逆光を使っている。当時、神話を主題にすることは時代遅れとされていたが、ターナーは神話を題材としていて、ホメロス作「オデュッセイア」叙事詩の一場面を描いた。船の上に赤い服を着ているのがオデュッセウスで、左の洞窟に住んでいた一つ目の巨人ポリュフェモスに一度は捕まるが、逃げ出した帰還の場面を描いている。雲のシルエットが、一つ目をつぶされ、左手を上に挙げ、右手で顔を覆ったポリュフェモスが描かれている。また、太陽の右にある雲の形は、アポロンが馬車に太陽を乗せて来ると言うギリシャ神話から、馬を表わしている。船の前には、海の精であるネレイスや魚が先導している。ゲーテの色彩論なども学び、先んじて追求していた。
フランス印象派に影響を与えた。普仏戦争時に、モネはロンドンでターナーの絵を見て影響を受ける。


7 イギリスにおけるフランス近代美術受容

イギリスとフランスは地理的距離は近くともあまり相容れず、イギリスはイタリア絵画などに重きを置いていて、フランス絵画がイギリスで受け入れられるまでに時間がかかった。織物業・実業家のサミュエル・コートールドは、自分の美術館のみならず、ナショナルギャラリーにフランス絵画を購入すべきだと基金を造って援助し、ようやく20世紀になって着目されていく。

1
ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル「アンジェリカを救うルッジェーロ」1819-39

2
ジャン=バティスト=カミーユ・コロー「西方より望むアヴィニョン」1836

3
ピエール=オーギュスト・ルノワール「劇場にて(初めてのお出かけ)」1876-77
初期の作品。肖像画ではなく、劇場の雰囲気を描いている。遠景の背景が全く細かく描かれていない技法が実験的。

4
エドガー・ドガ「バレエの踊り子」1890-1900年頃
長椅子と踊り子達を対角線上に配置することで、奥行きを感じさせる構図となっている。

ポール・セザンヌ「ロザリオを持つ老女」1895-96
ポール・セザンヌ「ロザリオを持つ老女」
1895-96

ポール・セザンヌ「プロヴァンスの丘」1890ー92年頃
ポール・セザンヌ「プロヴァンスの丘」
1890ー92年頃
印象派からは距離を置いた作品。自然を抽象化しており、後の画家達に影響を与えた。色や幾何学を用いた抽象化の途上にある作品。

o1500154414184960259
クロード・モネ「睡蓮の池」1899
初期の睡蓮の作品。橋の両端を描かない構図は、写真や浮世絵から学び、光の効果などもターナーから学んだ。夏の光を浴びたきらめきを表現している。

no title
フィンセント・ファン・ゴッホ 「ひまわり」
1888
ナショナルギャラリーで一番人気の絵画。アルルに住んだゴッホが、1888年8月~89年1月までの間に描いた「ひまわり」7作品の4枚目。
アルルで「黄色い家」と言う建物を借りて芸術家達のコミュニティを作ろうと、ゴッホは色々な画家を誘うも、来てくれたのは結局ゴーギャンだけだった。ゴーギャンが気に入ったひまわりの絵を飾り、ゴッホは幸せな日々を送るが、わずか60日で破局。後の耳切り事件へと・・・
因みに、中世では、黄色は「嫉妬」や「裏切り」の色とされたが、太陽の光にも用いられ、後には「忠誠」の色とされたとのこと。
1枚目:個人蔵
2枚目:白樺美術館設立で実業家の山本顧弥太氏が購入。1945年の神戸大空襲の為に芦屋で消失。
3枚目:ミュンヘン ノイエ・ピナコテーク所蔵
4枚目(展示作品)からバックが黄色に
5枚目:東郷青児記念損保ジャパン 日本興亜美術館所蔵 この作品のセルフコピー
6枚目:フィラデルフィア ミュンヘンにある3枚目のセルフコピー
7枚目:アムステルダム ファン・ゴッホ美術館所蔵 こちらも同じく4枚目のセルフコピー
(上段左から1枚目~4枚目、下段左かあ5枚目~7枚目)
11
ナショナルギャラリーのものを親友ゴーガンが欲しがった為に、セルフコピーを描いた。損保ジャパンとアムステルダムの作品が、今回来日したナショナルギャラリーの作品を元にしたセルフコピー作品。
もともとゴッホは補色好きだったが、黄色のモチーフに背景も同じモチーフにしたのは画期的であり、単色の花だけを描いたことも実験的。薄塗や厚塗りや影なども駆使している。
損保ジャパン所蔵の方は、さらに筆触などを実験しており、より塗りが深くなっている。筆致はやりすぎ感もあるが。かつてロンドンの人が所有していて、1987年まではナショナルギャラリーで2点が並んで展示されていたこともあった。サインが入っているのは、3枚目のミュンヘンの物と今回展示の2枚のみで、その2作がゴッホのお気に入りであり秀作であることがわかる。

今年一番と呼び声も高いこの展覧会は、以前であればチケット購入時や入場時に長蛇の列となって、人混みの中、前の人の頭越しにかろうじて絵をチラ見すると言った感じになったであろうところ、新型コロナウイルス対策の為に日時指定による入場者数制限をしていたおかげで、このひまわりですら、独り占め出来るほどの余裕があり、ストレスなく全ての作品をゆっくりじっくり鑑賞することが出来たのが、非常に良かった。

この後、常設展を鑑賞。その様子は追って。