電通本社ビルの地下にあるアドミュージアム東京へ。約28万点にも及ぶ広告資料を収蔵。
常設展示は、江戸時代の広告黎明期の資料展示に始まり、年代ごとの世相・風俗に関する展示。

ニッポン広告史 江戸
三井高利(たかとし)は、1673年に越後屋(三越)を江戸に創業。「店前(たなさき)売り」「現金掛け値なし」「正札販売」「仕立て売り」などの商法や「引札」の配布など、斬新な広告手法で、越後屋を「一日千両」の繁盛店に。経営学者のピーター・ドラッカーは、「マーケティングは世界に先駆けて、三井高利によってはじまる」と。

上の段の錦絵は、越後屋の前に居る女性達で、新作デザインの着物を着ている。当時のファッション誌やポスターのような役割をしており、この錦絵はお正月の景品となった。
下段は「引札(ひきふだ)」で、現在のチラシにあたる広告。江戸後期に盛んに使用され、商品の名称や効能を紹介した物だったが、店主による挨拶調や手紙調の語りの中に宣伝文句を盛り込んだものや、人気戯作者が手掛けた物も。
下段右側は、越後屋が1683年に発行した日本で最初の引札。
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看板は、一目でその商売がわかる商品模型の看板や、簡素な文字看板や、絵看板など、商いの顔に。
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上段の錦絵は、市川団十郎家に伝わる歌舞伎十八番「助六由縁江戸桜」。劇中に「山川白酒」「袖の梅」「福山うどん」など、実在したお店や商品名が登場し、今で言うタイアップをしていた。
下段の右の錦絵は、当時の万能薬の「外郎」から作られた歌舞伎に登場する、ぶぐばぐぶぐばぐ・・・の「外郎売」。
下段真ん中の錦絵は、七代目市川団十郎と岩井紫若が幕間に「江戸香」「広到香」と書いた看板を掲げて、歯磨き粉の口上を述べる姿(いわば生CM)を描いた役者絵。「ご評判よろしく、ご吹聴ください」というくだりもあってクチコミを依頼しており、幕間はテレビのCMタイムのよう。
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武士から町人まで江戸の人々の一大社交場が吉原で、吉原が繁盛した背景には巧みな広告戦略があったとか。歌川広重による吉原「桜と花魁の図」は、花魁道中を行うメインストリートの中之町通りに、1000本もの根付きの桜が植えられるお花見イベントがあった時の錦絵。その右側は、「吉原細見」と言う吉原のガイドブック。遊郭の場所やその格、遊女の名前や値段、人気ランキングまで記載されていて、2つの版元から年に2回発行されていた。なお、現在の吉原の中之町通りの様子は こちら
また、人々の好奇の目を引き付けるための見世物としてゾウやラクダまで! ゾウは、両国広小路での見世物興行を知らせる錦絵に登場。横浜に到着したゾウは、10年以上国内を巡回していたのだとか。ラクダは、長崎から江戸までやって来たが、ラクダは霊獣と考えられて悪魔祓い・雷除け・子供の病気除けなど、魔除けと考えられた。
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庶民に楽しまれていた「絵双六(えすごろく)」に、お店や商品を織り込まれた物は景品として配られ、お店はその絵双六の製作費を補助するタイアップを行って、遊びながら商品を覚えてもらう方法だった。中には、「長命寺桜もち」として今もある「隅田川の櫻餅」(その様子は こちら)や、現在鎌倉にある料理屋の「八百善の料理」や、現在もある「根岸笹の雪」や、現在も白酒を販売している「豊島屋白酒」などが載っている。
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木版印刷の技術が進化したことで、出版活動が盛んになり、江戸名物の色鮮やかな錦絵や大衆向けの絵入りの小説本・草双紙(黄表紙)が、庶民に大人気に。お店が独自に制作し、景品として配るなど。
左上は、喜多川歌麿「山東京伝店の図」1796 山東京伝は、現在の銀座一丁目で煙管と紙煙草入れのお店を営んでいた。
左下は、歌川国芳「艶姿十六女仙 上利劍」1848~54 江戸後期になると色々な銘柄のお酒が登場し、「剣菱」の酒樽に女性が腰かけていて、イメージガールのよう。
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絵びら
引札(上述)と並び、江戸から明治時代に多く用いられた広告物。絵柄には流行アイテムや縁起物など。その多くは、気に入った絵柄に自店の店名を後から刷り込む「名入れ」の印刷方法だった。
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判じ物引札。山東京伝の店を宣伝する謎絵入りの引札で、品物を包んで販売したところ大評判に。
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越後高田の粟飴屋 十返舎一九作 歌川国丸画。
当時ベストセラーとなった旅行ガイドブック。越後の飴屋も宣伝している。
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江戸時代にも、広告の仕掛人が何人もいた。平賀源内、式亭三馬、蔦屋重三郎、十返舎一九、山東京伝など。バレンタインデーは、西洋起源で本来は男性から女性に花などを贈るのが常だったが、女性から男性にチョコレートを贈るようにと、某チョコレートメーカーが打って出たことですっかり日本ではイベントになったのと同様、平賀源内が、夏場に鰻が売れないのを手助けすべく、土用の丑の日には鰻を食べるという慣習を作った(笑)

明治
文明開化と共に、印刷技術とメディアが発達。新聞や雑誌が登場し、次第に広告メディアの中心を担い、新聞広告を取り次ぐ広告代理店が誕生。
殖産興業(産業育成)と言うことで博覧会が行われるようになった。いわゆるショールーム。
上段は、第一回内国勧業博覧会。ガラスケースに飾られた陶器など書画や美術品が展示されていた。
下段は、第二回の様子。本館以外にも農業館、機械館、美術館などパビリオン形式になっており、展示品は約33万点。4か月の会期に82万人の集客を得た。
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大正
経済発展とともに都市化が進み、大衆消費社会へ。大正モダニズムが開花。西洋から写真・印刷技術が導入され、広告はより技巧的に。企業の中にも宣伝部などの専門組織が置かれ、アイデアが競われるようになり、スタークリエイターも誕生した。
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福助足袋のホーロー看板。金属板にガラス質の上薬を焼き付けた琺瑯は、光沢があり耐久性があることから、屋外広告に用いられた。福助足袋は、1882年に「丸福」として創業。古道具屋で見つけた福助人形をヒントに1900年に「福助」に変更。当時画期的だった足袋の大量生産に成功。
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昭和
大正時代の流れを受け、「昭和モダン」とも呼ばれた昭和初期。広告表現は、より国際的で洗練されたものになる。
戦前、欧米の文化が一気に広がった。
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そして戦争による広告冬の時代。
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戦後、順を追って色々な広告やTVのCMが。
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「男は黙ってサッポロビール」 今だと、女性は飲んではいけないのか?!と問題になりそう(苦笑)
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「4つのきもち」と称される内外のCMの視聴ブースがある。「元気がでる広告」「心あたたまる広告」「考えさせられる広告」「びっくりする広告」。
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それぞれのブースの中には、4~6種類のCMが常に流れていて視聴できる。
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タッチ式の大型モニターで、30万点を超える広告資料が閲覧できる「デジタルコレクションテーブル」がある。懐かしいCMも。
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別の階には、ライブラリーもあるとのこと。この日は閉館の時間となったので行けなかったが、なかなか面白かった。これらが全て無料で見られるとは、さすが太っ腹の電通!