欧米で活躍したアフリカ出身の歴史上の偉人と、欧州リーグでプレーするアフリカ出身のサッカー選手、そして当時欧州で活動していた自らを重ねたセルフポートレート「Diaspora」シリーズ。アフリカとそれ以外の場所との間に交流が芽生えた時代として、15~19世紀にかけてのヨーロッパをディアスポラのテーマとしている。(以下、解説内容は展示より)
ディアスポラとは:「撒き散らされたもの」という意味のギリシャ語に由来する言葉で、民族離散を意味する。
アフリカの場合、「アフリカ人のディアスポラ」(African diaspora)という用語は1990年代から言われるようになった。16世紀から19世紀にかけて、西部アフリカ・中部アフリカの黒人たちが大西洋奴隷貿易(Atlantic slave trade)を通して、大勢南北アメリカへ渡った。ディアスポラが「頭脳帰還」して、母国の発展に寄与する「チータ―世代」(Cheetah Generation)として歓迎するアフリカの国も出てきている。wikipedia より
「A Moroccan Man (1913)」
カタルーニャ出身の水彩画の画家であるホゼ・タピロ・イ・バロ Jose Tapiro y Baro による原画を基に。


「Malik Ambar (1549-1626)」
エチオピア生まれのマリク・アンバーは、貧困の為に両親に売られて奴隷としてインドへ連れて行かれた。彼はその後、軍の指導者になり、デカン西部のイスラーム王朝の首相を務めるまでになった。


「Ikhlas Khan」
アフリカ・インド系のイクラス・アフマド・カーンは、17世紀に首席大臣を務め、有名なモスクを建設して統治した。


「Omar Ibn Said (1770-1864)」
オマー・イブン・サイードは、現セネガル北西部出身。イスラム学者であり進学と数学を学んだが、25歳で奴隷として米国へ連れて行かれた。生涯奴隷だったが、数々の歴史や神学の執筆を行った。


「Don Miguel de Castro (1643)」
ドン・ミゲル・デ・カストロは、1643年もしくは1644年に、コンゴの地方の代表団としてブラジルを経由してオランダに。目的のひとつは、コンゴ内の争いの解決策の模索だった。


「Juan de Pareja (1606-1670)」
ファン・デ・パレハはスペインの画家で、奴隷だったが、1650年に彼を解放した画家ディエゴ・ベラスケスの家族とワークショップのメンバーとなった。ベラスケスによるパレハを描いた肖像画をモチーフに。


「Albert Badin (1747 or 1750-1822)」
アルベール・バディンはもともと奴隷だが、スウェーデン公室の執事を担った。


「Angelo Solimn (1721-1796)」
アンジェロ・ソリマンはナイジェリア生まれ。子供の頃に奴隷としてフランスに連れて行かれ、1734年にシシリアの皇帝への贈り物として引き渡された。その後、オーストリアのリヒテンシュタインの王子別宅で執事長になり、家族の相続人であるアロイス伯爵の家庭教師をも務め、オーストリア皇帝から友人としても尊敬・信頼を受けていた。

「Ayuba Suliman Diallo (1701-1773)」
アユバ・スレイマン・ディアロはセネガル生まれの奴隷で、イギリスに買い渡された後に自由を得て1734年に帰国。初めて奴隷貿易を経験した側の目線からの自伝的書籍を出版。


「Jean-Baptiste Belly (1746-1805)」
ジャンバプティスト・ベリーは、セネガル出身で、フランス西インド諸島の奴隷だったが、自分の自由を自身の貯金で買い戻した。フランス革命中には、全国大会とフランス評議会のメンバーにもなった。


「Pedro Camejo (1790-1820)」
ペドロ・カメホはベネズエラ独立戦争時に中尉になった。彼は元コロンビア共和国大統領のシモン・ボリバルの軍の上部で唯一の黒人。


不勉強にも、どの偉人も知らなかったのだが、西アフリカ旅行をして奴隷貿易などの跡地などを見学していただけに(ガーナのセントジョージ要塞の様子は こちら)、あんな劣悪な環境から売られて行き、海外で大成したと言うのは凄いなと。
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