東伊豆の今井浜海岸の峰温泉に行くにあたり、熱海にあるMOA美術館に寄ることにした。
途中、富士山が見えたが、山梨側は冠雪しているものの、静岡側には雪が殆どない。
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MOA美術館に到着。
岡田茂吉(1882~1955年)が創立。箱根町強羅に箱根美術館を造り、その後にこのMOA美術館(旧名熱海美術館)が造られた。彼のコレクションを基盤に、国宝3件、重要文化財67件(2019年現在 箱根美術館の埴輪1点を含む)、重要美術品46件を含む約3500件を所蔵している。また、復元された黄金の茶室や能舞台もある(その2 で後述)、広さ約7500坪の敷地には光琳屋敷なども(その3 で後述)。


2017年にリニューアル。現代美術作家の杉本博司氏と建築家の榊田倫之氏の新素材研究所が設計している。杉本博司氏と言えば、現在開催されている森美術館での「STARS」展(その様子は こちら)の6人のうちの一人。

入り口の扉は、赤・黒の日本産の漆15キロを人間国宝の室瀬和美氏が作成。「一生分以上の漆を使った」と。デザインは杉本博司氏によるもので、桃山時代にはやった「片身替」をイメージしている。

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メインロビーからは、初島や伊豆大島、房総半島から三浦半島、伊豆半島まで180度の大パノラマを眺望できる。床は大理石の寒水石。

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このベンチも杉本博司氏のデザインで、足下ひとつとっても透明度の高い光学ガラスと言う拘りぶり。
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展示室へといざなう通路の床は、奈良・東大寺の屋根瓦を焼いた職人に依頼した瓦を敷いている。

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展示の方法が秀逸。作品前の低反射ガラスに加え、黒漆喰を反対側に立てることで、ガラスの反射が一切しないようにと工夫されているのには感服。全くストレスなく作品を見て撮影することが出来る。

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企画展 「琳派の美 花鳥風月」

琳派とは、桃山時代後期に興り近代まで活躍した、同傾向の表現手法を用いる造形芸術上の流派、または美術家・工芸家らやその作品を指す名称。本阿弥光悦俵屋宗達が創始し、尾形光琳・乾山兄弟によって発展、酒井抱一・鈴木其一が江戸に定着させた。(wikipedia より)


尾形光琳 (1658~1716)
京都の高級呉服商「雁金屋」を営む尾形宗謙の次男として生まれ、父から能・書・絵の手ほどきを受け、狩野派の画法も学ぶ。生家にあった本阿弥光悦や俵屋宗達の作品に触れ、斬新な意匠を用いた装飾性を完成し、工芸にも優れていた。弟の尾形乾山の焼き物の絵付けや小袖や蒔絵の図案を手がけ、梅や波を図案化したデザインは、後に光琳模様として愛好された。

「絖地秋草模様描絵小袖」伝 尾形光琳
白綸子(しろりんず)の上に菊や桔梗などの秋草を描いた作品で、細部には光琳独特の意匠化された草花を表現。いわば小袖をキャンバス代わりにした作品で、草花の配置も東京国立博物館収蔵の重要文化財「冬木小袖」に近い。平面的な構成ながら、女性が身にまとった際に表れる立体的な文様の状況を計算した作品。
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「白梅図香包」尾形光琳 
光琳は、香木を収めるための裏に金箔を貼った絹地の包みに、草花や鶴などを描いた作品をいくつか残している。この図もそうした中の一つで、光琳独特の、花弁の区分がない白梅の花をつけた梅樹が描かれている。香包は上下左右から折っていくので、全体が九つに仕切られるが、中央の四角には、内側に香木を置くため、絵がかからないように工夫した構成がなされている。
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本阿弥光悦(1558~1637)
刀の鑑定や研ぎなどを生業とする京都の上層町衆に生まれ、文化人として書・陶芸・漆芸に秀で、書の世界では「寛永の三筆」のひとりとされた。元和元年(1615)には、徳川家康より洛北鷹峯を拝領し、一族や裕福な町人層らと共に移り住む。その頃より楽焼きをはじめとする茶碗類を作り始めたと考えられ、漆芸では、のちに光悦蒔絵と呼ばれる鉛や螺鈿を大胆にしようした独自の作品を創造した。

「樵夫蒔絵硯箱」 伝 本阿弥光悦 重要文化財
蓋の甲盛りを山形に高く作り、蓋と身の四隅を丸くとった袋形の硯箱。樵夫の動きを意匠化した描写力や、わらび・たんぽぽを図様化した見事さには、光悦・宗達合作といわれる色紙や和歌巻の金銀泥(きんぎんでい)下絵と共通した趣きがみられ、鉛や貝の大胆な用い方や斬新な造形感覚からは、光悦という当代一流の意匠家が、この制作に深くかかわっていることが感じられる。原三渓旧蔵。
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「銹絵染付梅花散文蓋物」尾形乾山(1663~1743)
尾形乾山は、野にある菊やすすき、桔梗、笹、柳などのほか、鳥や道釈人物などを題材に、彼が陶法を受け継いだ仁清窯や他の京焼などには見られない独特の作風の焼きものを生み出した。乾山は光琳の弟として京都有数の呉服商雁金屋の三男として育ったが、その家業の伝統を生かし染織に用いる型置きの技を陶面に応用した作品。器形といい文様といい日本的情緒あふれる意匠で、乾山の代表作の一つ。身の底裏中央には、大きく鉄絵具で「乾山」と書かれている。鴻池家伝来。

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「色絵桜楓文鉢」仁阿弥道八 江戸時代 19世紀 京焼の名工。

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「秋草図屏風」伝尾形光琳 江戸時代18世紀

菊の表現には、2種類見られるが、花弁を線描きせずに円形に色塗りする表現は、独特の装飾性。

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「色絵藤花文茶壺」野々村仁清 江戸時代17世紀 国宝 

漆喰の壁は壁だけでなく、江戸黒とも呼ばれる黒漆喰の壁が箱のようになっており、野々村仁清の国宝の為の部屋が作られている。杉本博司氏のデザイン。免震の台で、地震があっても倒れない特別な台により、糸などを張って固定していない。

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黒色は酸化した銀により、赤の周りに金彩など、緑・赤・金・銀を使用している。江戸時代前期の京焼の色絵の完成者。何処から見ても破綻がなく正面に見える。
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「紫式部図」尾形光琳 江戸時代18世紀 重要美術品 

紫式部が石山寺で月を見て源氏物語の構想を得たと言う伝承をもとに、湖面に映る月を眺めながら執筆する姿。中央の火灯窓や庇の水平線などの造形要素に、光琳の幾何学的形態への興味がみられる。

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「色絵十二ヶ月歌絵皿」尾形乾山 江戸時代元禄15年(1702年)重要文化財
藤原定家の和歌に因んだもの。
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「秋好中宮図」尾形光琳 江戸時代18世紀 

『源氏物語』第二十一帖「少女(おとめ)」に取材した作品。光琳画には、同じ主題でこの図と対になるとされる中宮の侍女の立ち姿を描いた「秋好中宮侍女図」(個人蔵)が遺されている。光琳のやまと絵を代表する作品の一つ。

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俵屋宗達(?~1640年頃?)
「俵屋」と言う扇絵、料紙、屏風などを制作する絵屋を主催していたと考えられ、初期には和歌巻や色紙に金銀泥で下絵を描き、水墨画や障壁画などの大作を制作。輪郭線を用いない没骨法や墨のにじみなどを利用した「たらし込み」の技法で、独特の画調を作り上げた。大和絵の手法や主題を新たに展開させ、琳派の作風の基礎を作った。

「鹿下絵新古今集和歌巻断簡」本阿弥光悦 俵屋宗達下絵 桃山~江戸時代 17世紀

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「伊勢物語 西の対図」伝 俵屋宗達 

『源氏物語』や『伊勢物語』などの物語絵は、古典美の復興と転生を願った宗達が好んで取り上げた画題。宗達筆と伝えられる伊勢物語図は、現在四十七図が伝えられており、いずれも無款でほぼ同じ大きさの色紙形に描かれ、そのうちの五図を除くすべてに詞が書かれている。その裏書から、能書家の公家や町衆などが詞書を寄り合い書きした揃物であったことが知られる。この図は『伊勢物語』中、「西の対」の段で、在原業平とされる男が、かつて懸想した貴婦人(二条后宮)の旧屋を訪ねる場面。

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「軍鶏図」伝 俵屋宗達 

宗達水墨画の特色とされる、対象の特質を正しく把握した描写力と、墨の濃淡とにじみを効果的に生かした「たらし込み」技法の見事さの点で、代表的作品の一つといえる。

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「龍虎図」俵屋宗達 宗達独特のたらし込みで滲ませた黒雲が特徴的。

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酒井抱一(さかいほういつ)(1761~1828)
姫路城主の酒井忠以の弟として江戸藩邸に生まれ、俳諧や書画に親しみ、狩野派、浮世絵、円山派、土佐派など諸派の画風を学ぶ。37歳で出家し、光琳に傾倒。文化12年(1815)光琳の百年忌には遺墨展を開催し、江戸での光琳顕彰に努めた。季節感や雨風などの気象の変化を的確に描き、今日「江戸琳派」と呼ばれる新たな画風を確立。花鳥画を得意としながらも、風俗画、仏画、吉祥画、俳画など様々な主題を描いた。

「雪月花図」酒井抱一 重要美術品
雪月花は、わが国の季節感を端的に物語る画題で、江戸狩野派の画人などに早くから取り上げられてきた。抱一は、三幅を並置したときの各幅相互の画面構成を考慮し、雪松は画面上部に、雲井の月は中央に、桜花は下部に描いて、三幅を通して対角線に構図をまとめている。ここには、画家、俳人、そして琳派芸術の研究家でもあった抱一の、デザイナーとしての面目が躍如としている。また、精選された絵具の優秀さや賦彩の美しさの点でも、抱一代表作の一つであるといえる。

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「藤蓮楓図」酒井抱一
酒井抱一に至って、江戸琳派の草花図は、装飾性の点で完成の域に。抱一が私淑した光琳画に見られる画面の重厚な構成力は影をひそめ、繊細・瀟洒な様式美が主となり、色彩の点でも、たらし込みよりも色の平塗りによる華やかな効果を重視するようになる。中幅の蓮図の落款に「倣空中斎之図」とあることや自筆の箱書から、本阿弥光悦の孫、空中斎光甫の「藤・蓮・楓」三幅対(藤田美術館蔵)を図様・筆法ならびに彩色法に至るまで忠実に写したものであることがわかる。抱一が、琳派に熱烈に傾倒していた五十歳代後期の作であろう。

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鈴木其一(すずききいつ)(1796~1858)
文化14年(1817)、18歳で酒井抱一の内弟子として絵を学び、同門の鈴木家を継いで、酒井家の家臣も務めた。酒井抱一の代筆なども行い、師の没後は抱一様式を踏襲しつつも、明快な色調と大胆な画面構成で独自の画風を打ち立てた。

「乙御前図」鈴木其一 江戸時代19世紀 

ふくよかな形態は光琳の画質を受け継ぐと共に、其一特有の感覚と画面構成。

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常設展や黄金の茶室などは追って その2 で。


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