企画展の「琳派の美 花鳥風月」(その様子は その1)以外にも色々とあって面白い。
光琳梅、光琳波(西陣織などにも使用されている)、左の老木と右の若木、などで有名な尾形光琳の国宝を写真作品に。白黒で撮ってプラチナ・パラディウム・プリントにしたもので、光琳300年忌の記念で製作。プラチナプリントは黒が黒として濃淡がくっきりと出る。
黄金の茶室
天正14年(1586)正月、豊臣秀吉が時の天皇、正親町天皇に茶を献じるために、京都御所内の小御所に組立式の黄金の茶室を運びこみ、黄金の道具を用いて茶会を行ったという史実に基づいて復元制作したもので、美術館を造る時に、前の初代館長の吉岡氏が光琳屋敷と共に復元した。
秀吉は、この黄金の茶室を、天正15年の北野茶会に用い、天正20年には朝鮮出兵のため肥前名護屋に出陣した折、大阪より運ばせ茶の湯を行ったことが知られ、大阪城落城とともに消滅した。公家、武将、茶人、外国の宣教師などが記した文献史料に基づき、数奇屋建築の泰斗堀口捨己博士の監修のもと復元されたもので、茶室は組み立て式で、各部材のサイズや、組み合わせの仕組などは史料の記述と構造上の条件から割り出されている。
茶道具は、表千家不審庵に伝わる利休を純金で復元したもの。茶道具だけで金を50キロ、全体で80キロ使用している。障子に張る赤い紋紗には、桂離宮古書院の唐紙をもとに秀吉好みの桐紋の図案に決定。「猩々緋」の畳は、当時の武将が用いた陣羽織を典拠に復元。床下からの不審者に刺されないようにと、陣羽織の生地+わら+真綿+ラシャ+金襴の縁と言うように非常に分厚いものとなっている。持ち運び出来てまた建てられるようにと、一枚の板を上から枠に落としてはめて行く方法で一切釘は使っておらず、長持2つに全てが収まり、まるでプレハブ工法のようになっている。現在はライトのもと、金色を見ているが、当時は蝋燭の光のみの為、金色は土壁の色、赤も暗い色に見えており、極楽浄土がイメージされていた。
能楽堂
屋根は檜皮葺(ひわだぶき)の入母屋造。舞台は総檜造りで、鏡板は日本画家・松野秀世氏が描いたもの。座席数501席
阿弥陀如来及両脇侍坐像 平安時代12世紀 重要文化財。
阿弥陀様は上品下生印(来迎印)を結んでおり、極楽浄土から死者を迎えに来る姿。
向かって阿弥陀如来の左側には勢至菩薩、右側には観音菩薩。
両菩薩とも雲に乗ってやって来ていつでも直ぐに立てるようにと、大和座りをしている。大和座りは、京都大原三千院の国宝阿弥陀三尊坐像とこれだけ。観音菩薩は、蓮台になくなった人の魂を乗せて西方浄土に向かう為に蓮台を持っている。

因みに、これら三尊像の展示台は、長さ9メートル、奥行き1.8メートルで、推定樹齢1500年以上の屋久杉が使われており、展示台に免震装置が埋め込まれている。
「伝法正宗定祖図」定圓(じょうえん) 平安時代仁平4年(1154年)重要文化財
仏祖釈迦如来から第33祖慧能などを図によって示している。
「諸尊図像」上巻 心覚 平安時代12世紀 重要文化財
平安時代後期から鎌倉時代前期にかけて、多様な図像類を整理集大成する活動がみられるように。
「曼荼羅集」上・中・下のうち上 興然撰 鎌倉時代12~13世紀 重要文化財
密教の展開とともに、根本曼荼羅である金剛界・胎蔵界曼荼羅のほかに、特別な諸仏に関する多様な別尊曼荼羅がつくられる。京都・東寺旧蔵。
「釈迦八相図」 鎌倉時代 13世紀 重要文化財 釈迦の生涯における八大事相をさす。
「愛染明王像」 鎌倉時代 嘉暦2年(1327年)重要文化財
「深谿朝爽」川合玉堂 昭和26年(1951)頃
「月下紅白梅図」杉本博司 2017年 光琳梅、光琳波(西陣織などにも使用されている)、左の老木と右の若木、などで有名な尾形光琳の国宝を写真作品に。白黒で撮ってプラチナ・パラディウム・プリントにしたもので、光琳300年忌の記念で製作。プラチナプリントは黒が黒として濃淡がくっきりと出る。
「海景 熱海」杉本博司 平成9年(1997)
箱根美術館の創立者である岡田茂吉氏は、日本画や蒔絵制作などを行う実業家で宗教家だった。この後は庭など屋外を散策。その様子は その3 で。
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