1919年(大正8年)建築。船舶事業で財をなした内田信也氏が、母親の静養の場所として建築した。
2代目の持ち主は、東武鉄道の創始者の根津嘉一郎氏。内田信也氏が建てた2棟を大正14年に購入し、庭部分も取得。約3000坪弱。
3代目の持ち主は、政治家・実業家の桜井兵五郎氏。昭和22年に購入し、増築し「起雲閣」旅館を経営。かつてあった金沢の湯涌温泉の「白雲楼」東洋一のホテルとして所有していた。山本有三、志賀直哉、谷崎潤一郎などが泊まっていた。
年間6000万円の維持費がかかる為、取り壊しの危機となり、平成10年競売物件なったが、市民活動を経て平成12年熱海市が12億5000万円で購入。今では年間約10万人が訪れる観光施設に。
2代目の持ち主は、東武鉄道の創始者の根津嘉一郎氏。内田信也氏が建てた2棟を大正14年に購入し、庭部分も取得。約3000坪弱。
3代目の持ち主は、政治家・実業家の桜井兵五郎氏。昭和22年に購入し、増築し「起雲閣」旅館を経営。かつてあった金沢の湯涌温泉の「白雲楼」東洋一のホテルとして所有していた。山本有三、志賀直哉、谷崎潤一郎などが泊まっていた。
年間6000万円の維持費がかかる為、取り壊しの危機となり、平成10年競売物件なったが、市民活動を経て平成12年熱海市が12億5000万円で購入。今では年間約10万人が訪れる観光施設に。
和館 1階 「麒麟の間」
2階 「大鳳」
紫色の壁となっている。障子の桟は竹製。太宰治が2泊した部屋で、昭和23年亡くなる3ヶ月前、心中した山崎富江と宿泊。別館で人間失格の第三章まで執筆していた。
傾斜した所に何棟も建っているのだが、「大鳳」からの眺めは格別。
洋館
2代目のオーナーであった根津嘉一郎が、昭和7年(1932年)に建てた。
根津さんが泰山タイルに特注で焼いてもらった瓦。
「玉姫」 床も泰山タイル。ステンドグラスはアールデコ。
日本の欄間風に螺鈿(窓貝)の欄間。
国会議事堂のステンドグラスを作った宇野澤ステインドガラス硝子工場が手がけた。
食堂 格天井になっている。洋館と言っても純和風なもので、金唐皮紙を使用しているが、今では修復する技術者がいないのでそのまま使用。
居間 「玉渓」
根津嘉一郎は鉄道王なだけに、窓が客車のように上に引き上げる方式。
マントルピースは泰山タイル、上は中国、ヘレニズム風など、和洋中を取り入れた。マントルピースは、床の間をイメージし、左が床柱、その上にガンダーラからの本物のレリーフがあったのだが、競売にかかって何処かに行ってしまったので現在はレプリカが飾られている。サンスクリット文字もある。
「松風」
「金剛」
根津嘉一郎によって昭和4年(1929年)に建てられた洋館。暖炉上方のスペード・ハート・ダイヤ・クラブを象った模様や草花の模様などが、西洋館では珍しい螺鈿細工によって施されている。柱などの随所に面取りや名栗仕上げの加工も。床は殆どが寄木張りに改められているが、建築当時は全面が陶芸的なタイル張りだった。ステンドグラスをはじめ、蝶番やドアノブなどの建具金物の細工は当時のもの。
ローマ風浴室
ステンドグラスの窓やテラコッタ製の湯出口などは、建築当時の物。湯船には蛇口がないが、湯船の床奥にお湯が出てくるように小さな穴が開いている。冷たくなく滑らないと言うことから、木製のタイルを敷いてある。建築当時は畳敷きで、あわせて9畳の脱衣室と化粧室も敷設されていたとのこと。
窓も局面になっている。「染殿の湯」旅館として使われていた時のお風呂
「孔雀」
大正8年(1919年)に完成した初代オーナーの内田信也の別邸の一部。当時は「麒麟」の間の並びにあったが、移築された。10畳の座敷に8畳の次の間、これらを取り囲む畳廊下や床の間、付け書院など極めて基本的出一般的な座敷の構成。比較的地味なつくりだが、畳廊下の端から端までのおよそ10メートルの天井部分を木材が貫いており、「麒麟」と同様、窓ガラスや障子など建具のほとんどは、建築当時の物。旅館だった時には、作家の舟橋聖一はこの部屋で「芸者小夏」「雪夫人絵図」を執筆。武田泰淳も、起雲閣別館をイメージに用いて「貴族の階段」をこの部屋で執筆。平成4年(1992年)には、将棋の谷川浩司竜王と羽生善治王座による「第五期竜王戦」の会場にもなった。
和洋折衷など色々な部屋があり、面白かった。
コメント
コメント一覧 (2)
福岡でも大正時代の木造の劇場の維持費が大変で市役所にお願い・・・となってます
な~が nagacumatz
が
しました