財団創立80周年記念特別展の続き(展示室1・2こちら)(解説文及び画像はHPから)

展示室3・ホール
「如来立像」中国・北斉時代 6世紀 石造(白大理石) 1軀 総高291.3cm
中国北部、河北省の曲陽や定県では、北魏時代以来、白玉像とよばれる白大理石の仏像が盛んに制作された。その多くは小像であるが、本像は、北斉時代末期より大型化する白玉像の一例であり、左右の肘先を失うものの、台座までを完備する作例として重要である。大ぶりの頭部は下膨れで、切れ長の眼とわずかに笑みを浮かべた唇が独特な表情をつくる。体部に流れるような曲線をえがく大衣の表現が美しい。
如来立像
「釈迦多宝二仏並坐像」中国・北魏時代 太和13年(489) 銅造鍍金 1基 高23.5cm
『法華経』見宝塔品には、釈迦の説法に賛嘆した多宝仏が、多宝塔中の自らの座に釈迦を招き入れ、そこで釈迦が説法を続けたことが記されおり、これを表した彫刻作品は中国・北魏時代に多くみられる。向かって左が多宝仏、右手を挙げて説法するのが釈迦である。台座背面には造像銘が鐫刻されており、それにより太和13年亡き父母の供養のために発願されたことが知られる。細部にこだわらない力強い作風は太和仏の典型であり、本作はその名品にかぞえられる。
釈迦多宝二仏並坐像

「十一面観音立像龕」花塔寺(宝慶寺)将来 中国・唐時代 7世紀 石造(石灰岩)1面 総高107.0cm
唐の都長安にあった花塔寺(宝慶寺の名で知られる)に所在した浮彫石仏板群のうちの1面。現存する石仏板の半数に、長安3年(703)あるいは同4年の銘があるが、造像活動はそれ以前より始まっていた。すなわち、本像にみる流麗な衣文線や均整のとれた体軀の表現は、制作が7世紀末にまでさかのぼることを示している。はつらつとして充実した表現は中国・初唐期の仏教彫刻の気風であり、それは当時の日本仏教彫刻の手本となった。
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 展示室4 
「双羊尊」中国おそらく湖南省 前13~11世紀 青銅 1個 高45.4cm 口径14.9cm~18.4cm
背中合わせに2匹の羊を合体させ、口の開いた器を背に載せているような姿の尊である。尊とは、酒を供える盛酒器である。羊が背負っている器の胴には、大きく目を見開いた饕餮(とうてつ)のようにみえる獣面があらわされ、神前に供する器としての威厳を備えている。それを支える羊の身体は鱗状の文様で覆われ、脚の付け根には龍がとぐろを巻くなど、器表が隈無く文様でうめられている。ロンドンの大英博物館所蔵の双羊尊と本作のほか、同形の遺例はない。
双羊尊

「饕餮文方彜 とうてつもんほうい」中国・西周時代 前10世紀 青銅 1個 高26.1cm
祭祀に用いる彝器(いき)として製作された古代青銅器のなかには、その器種を何とよんでいたのか今ひとつ明らかでないものもある。彝もそのひとつで、箱形の器に屋根形の蓋をのせた盛酒器である。方形で胴張りのある身や蓋の角には鰭状の飾りがつけられて装飾的な姿をしている。身と蓋それぞれの側面に大きく饕餮をあらわし、それに従う鳳凰や夔龍文(きりゅうもん)を脚部に配する。状態がよく、小振りながら精妙な鋳造によって文様の細部まで明瞭にあらわされている。
饕餮文方彜

「饕餮文方盉 とうてつもんほうか」中国・殷時代 前13〜12世紀 青銅 3個  (各)高 71.2~73.0cm
「盉」とは注酒器のひとつで、酒をほかの酒や香料、水などと混ぜ合わせる撹拌器であり、盃に注ぐ役割もすると考えられている。本作はいずれも四脚をもち、方形の胴部の側面に持ち手をつけ、古代中国の神である饕餮をあらわした頂面覆いに長くのびた注口をつける。胴部の各側面にも大きく口を開いた饕餮があらわされている。各々の盉の文様はわずかずつ異なり、細部まで凝った造形となっている。ほぼ同形同寸の3個の盉が一組になっている例は大変珍しく、殷王の所有品であった可能性が高い。殷代王墓のひとつである河南省安陽市殷墟侯家荘西北岡第1001号墓から出土したと伝えられている。
饕餮文方盉

展示室5
「根本百一羯磨」奈良時代 8世紀 紙本墨書 1巻 縦27.4cm 長1164.9cm
『根本説一切有部百一羯磨』を略して、『根本百一羯磨』あるいは『百一羯磨』とよぶ。教団の議事運営や宗教行事に関する作法、すなわち羯磨を101集めたもので10巻からなる。唐の長安3年(703)に義浄が漢訳した。奈良時代に書写されたこの一巻(巻第6)は、暢達した唐風の書風がみごとで、表紙や紐、赤密陀を塗った軸首など原装をとどめている点も貴重である。1行17字詰の通例の形式によらず、大部分を1行12〜13字で書写しており、いわゆる「大字経」の代表的な遺品である。巻第5が兵庫・白鶴美術館に、その他の8巻が正倉院聖語蔵に所蔵される。
根本百一羯磨

「無量義経・観普賢経」平安時代 11世紀 彩箋墨書 2巻 無量義経 縦25.2cm 長927.9cm 観普賢経 縦25.4cm 長845.8cm
平安時代後期には、美しい染紙や金銀を使用したいわゆる装飾経が数多く作られたが、なかでも写経功徳を説く『法華経』がもっとも多い。しばしば『法華経』は、序論というべき『無量義経』(開経)と結びの『観普賢経』(結経)を加えた「法華三部経」として書写された。この2巻ももとは『法華経』と一具であったと考えられる。濃淡の褐色の染紙を交互に継ぎ合わせて金砂子を散らした料紙に、金泥で界(罫)を引き、墨で経文を書写した、このような写経は「色紙経」とよばれる。温雅な和様の書風は11世紀の写経を代表する名筆といえる。両巻はそれぞれ別々の伝来経路をたどり、当館で再会を果たした。
無量義経・観普賢経

「宗峰妙超墨蹟 法語」鎌倉時代 元亨2年(1322) 紙本墨書 1幅 縦32.1cm 横77.6cm
宗峰妙超(1282〜1337)は南浦紹明の法を嗣ぎ、大徳寺開山となった。花園上皇からの諡号「大燈国師」が広く知られている。その法嗣には徹翁義亨、妙心寺開山の関山慧玄らがおり、臨済宗の中でも大きな勢力を誇った。本作は冬至小参(冬至前日に行われる行事)の際の法語を宗円道人(伝歴不詳)のために揮毫したもので、遺墨の中では早い時期(41歳)の作である。宗峰妙超の遺墨は多数あるが、いずれも気宇壮大な書風をみせ、中国の名僧虚堂智愚(きどうちぐ)や中峰明本(ちゅうほうみんぽん)などの影響がみてとれる。
宗峰妙超墨蹟 法語

展示室6
「青磁筒花生 銘 大内筒」龍泉窯 中国・南宋時代 12世紀 1口   高18.3cm 口径8.0cm 底径6.6cm
筒形の瓶は、口部で僅かに開いている。薄く成型された胴には青磁釉がたっぷりと施され、裾へ薄く流れている。砧青磁の名品として名高いものである。裏側には口縁下に孔が開けられていて、鐶を付けると掛花生として使えるようになっている。銘の「大内筒」は、周防大内家に伝わったためとされている。この花生に添っている袋に用いられた薄茶地桐唐草文金襴は、大内桐金襴とも言われている。
青磁筒花生 銘 大内筒

「春日山蒔絵硯箱」室町時代 15世紀 1合 高4.9cm 奥行23.9cm 幅22.1cm
足利義政遺愛の硯箱のひとつとして名高い作品である。被蓋造りの硯箱を梨子地とし、蓋表に女郎花や桔梗、薄、さるとりいばらが生い茂り、三頭の鹿が佇む秋の野が満月に皓々と照らし出されている様を金研出蒔絵と高蒔絵であらわしている。蓋裏には山中の茅屋で鹿の声に耳を傾けているかのような男が描かれている。文様の中に「盤(は)」「こ・と・尓(に)」「け」「連(れ)」の文字が葦手の手法であらわされ、『古今和歌集』巻4、壬生忠岑の歌「山里は秋こそことにわひしけれ 鹿の鳴く音に目をさましつつ」を暗示している。高度な文学的趣向を凝らした作品である。
春日山蒔絵硯箱

「青井戸茶碗 銘 柴田」朝鮮時代 16世紀 1口 高6.8cm~7.0cm 口径14.3cm~14.6cm 高台径4.8cm
大きく開いた姿の美しい茶碗である。内側にはゆったりと轆轤目がまわり、外側には5本のへら目が強く施されている。釉は淡い枇杷色を呈しているが、一部で青味が表れ、ところどころに釉が飛んで青白い流れとなっている。見込みは大きく渦状になり、その周りに目跡が大きく5つ残り、高台畳付きにも5つ認められる。織田信長から柴田勝家が拝領したため、「柴田」の呼称がある。幕末には大坂の千種屋平瀬家に入り、明治36年に藤田家に移り、のち根津嘉一郎の有するところとなった。
青井戸茶碗 銘 柴田

「嵯峨山蒔絵硯箱」室町時代 15~16世紀 1合 高5.3cm 奥行27.3cm 幅24.0cm
総体を黒漆塗りとし、蓋表の左方に大小の大太鼓を大胆に配した硯箱である。蓋裏は梨子地に金研出蒔絵と高蒔絵で遠景に山の端に月がかかる様子をあらわし、近景の流水の汀に建つ殿舎の端近には琴が置かれている。さらに蓋裏と身の懸子には「嵯・峨」「乃」「御幸」「絶にし」「千代」の字が葦手で散らされており、『後撰和歌集』巻第15、雑歌1、在原行平朝臣の「さがの山みゆき絶にし芦川の 千世のふる道跡はありけり」をあらわしたものである。
嵯峨山蒔絵硯箱

「花白河蒔絵硯箱」室町時代 15世紀 1合 高4.9cm 奥行22.5cm 幅20.1cm
初代根津嘉一郎は、明治39年(1906)の第3回平瀬家売立で慈照院(足利義政)旧蔵の伝来をもつこの作品を入手した。当時たいへんな高額であったため、根津は収集家として一躍注目を集めた。全体に柔らかな曲線で構成されたこの硯箱は、全て金研出蒔絵で、蓋表に満開の桜の下に佇む烏帽子狩衣姿の公達が描かれ、桜の幹から土坡に「花・白・河」の3文字が葦手の手法であらわされている。それによって『新古今和歌集』巻16、飛鳥井雅経の歌「なれなれてみしはなこりの春そとも なとしら河の花の下かけ」の歌意による意匠であることが暗示されている。
花白河蒔絵硯箱-001

「色絵山寺図茶壺」野々村仁清作 江戸時代 17世紀 1口 高22.3cm 口径9.4cm 底径10.3cm
肩の三方に耳を付けた壺には、胴の全面に夕陽の残照のなかに楼閣のある春景が描き出されている。金銀彩を多く用いて、満開の桜のなかに堂宇が黒の輪郭線でしっかりと描かれている。茶壺はもともと褐釉の掛かった壺であったが、仁清はそれを華やかな色絵に仕立てたことで、高い評価を得ていた。その豊かな装飾性は、陶芸だけではなく、漆芸などの技法を取り入れ、漆黒の地色を完成するなど、独特の境地を完成させた。白濁釉は柔らかく焼き上がり、底には左側中央に「仁清」の大印が捺されている。
色絵山寺図茶壺

「青花花卉文盤」景徳鎮窯 中国・明時代 15世紀 1枚 高9.0cm 口径63.6cm 底径48.1cm
大型の盤は、元時代から盛んに作られるようになった。内外の周縁部に八種類の花果折枝文を配し、表の中央には花卉文を大きく、のびやかに、余白をとってゆったりと描く。その精緻な筆使いと濃淡を加えた青料での描写は、わずかに青味を帯びた釉の下で瑞々しさを見せている。花果文には吉祥の意味を持つものがあり、鶏頭花は中国で鶏冠花ともいい、立身出世を意味するという。底は釉がかからず露胎で胎土は赤く焼けている。銘はないが、永楽期(1403〜25)の作品とされている。
青花花卉文盤

特別ケース
「宝飾時計」機械:C・トンプソン作 イギリス 18世紀 一基 高100.0cm 奥行43.0cm 幅50.0cm
清時代、乾隆帝のもとには交易の便宜を求めてヨーロッパからさまざまな贈物があった。なかでも本作のような宝飾時計は清朝の宮廷で好まれ、北京の故宮博物院にも伝わっており、一般に清朝時計とよばれている。これはバロック様式の外観をもった4段から成る金色燦然とした建物風の置時計である。からくりを動かすと、カリヨンが曲を奏で、ガラス細工の列柱が回転し、時計の頂部にある瑠璃色の鳥が左右に身を振りながら嘴と尾を動かしてさえずる。
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お天気は雨模様だったのだが、庭園は紅葉の見頃となっていたので、少し散策。その様子は その3 で。